銀杏の葉色に咲く玉簾


 私がヒスイ地方に来て、イチョウ商会に保護されてから、早くもひと月が経過しようとしていた。

「こんにちは、イチョウ商会です。ご注文の品物をお届けに参りました」
「ありがとう! さすがはイチョウ商会だ、仕事が早い! ほら、お代だよ」
「ありがとうございます。ぜひまたご利用ください」

 真新しかった制服はすっかり体に馴染み、重いと感じていたリュックを背負うことにもだいぶ慣れた。コトブキムラ近辺の地形は地図を見なくとも頭の中に入っており、黒曜の原野までなら一人で配達に行けるようになった。
 黒曜の原野の高台ベースにいる警備隊に配達を終えた私は、軽い足取りで坂道を下る。

「イーブイ、帰り道にてつのかけらやぼんぐりを採って帰りましょうか?」
「ブイブイ!」
「ふふっ。ギンナンさんとルテアさん、喜んでくれたらいいな」

 行きのリュックは配達する荷物でいっぱいだけれど、帰りのリュックは道中で見つかる採集物でいっぱいだ。行きも帰りも肩は重いけれど、帰りを待ってくれている人たち――ギンナンさんとルテアさんの笑顔を思い浮かべたら苦ではない。私を助けてくれた彼らに恩返しすることと、元の世界に帰る手がかりを手に入れるために時空の歪みを見つけることが、今の私の行動理由だった。
 時空の歪みとはまだ遭遇できていないし、私の記憶の中にいる『あの人』のことを思い出すこともまだ叶わない。不安からひっそりと宿舎で一人涙することもあるけれど、でも、この世界で頑張っていられるのは間違いなくギンナンさんとルテアさんのお陰だ。
 コトブキムラの正門を潜り、ソノオ通りを進んでいくと、見慣れた荷車とその前に座っているギンナンさんとルテアさんの姿を見つけて、安心感から自然と表情が綻ぶ。

「おかえりなさい、レインさん」
「配達ご苦労さん。怪我はないかな?」
「はい。オヤブンが出現する場所をルテアさんから教えていだいただいたので、そこを避けて行ってきました。他にポケモンと出くわしてもイーブイが倒してくれましたし」
「ブイブイッ!」
「まあ。とても頼もしいですね」
「はい! あ。これ、帰り道に採ってきたぼんぐりとてつのかけらです」
「ありがとう。確かそらいろたまいしが余っていたね。クラフトでウイングボールを作って売り物にしよう。少し席を外すから、何かあったら呼んでくれるか?」
「はい。もちろんです」

 私からぼんぐりとてつのかけらを受け取ると、ギンナンさんは荷車の裏に引っ込んでしまった。その横顔が、新しい遊びを見つけた少年のように高揚している気がした。

「ギンナンさんが自らクラフトを?」
「はい。ギンナンさんは何かを作ったり、修繕することがとてもお好きで、趣味のようなものでしょうか。それに、腕も確かなのですよ」
「そうだったんですね! そういえば『あの人も』……」

 ズキリ。思い出そうとした記憶を抑え込むように頭が痛む。でも『あの人』も何かを造ることや、造り変えることが好きだったような気がする。
 黙り込んでしまった私を、ルテアさんが心配そうに覗き込む。

「レインさん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫、です」
「すみませーん。パイルのみが欲しいんですけど」
「はい、ただいま。レインさん、在庫を確認してもらえますか?」
「はい!」

 荷車の中からお客様の目当ての商品を取り出したり、包装のお手伝いをしたり、道を歩く人に声掛けをしたり、近場へと配達をしたり。慌ただしく過ごしているうちに、あっという間に今日も業務終了時間になってしまった。
 太陽が沈み始めてようやく、裏でクラストをしていたギンナンさんが戻ってきた。

「お疲れ様。最後のほうは任せっきりになってしまったね」
「ふふ。このくらいお任せください。クラフトは進みましたか?」
「ああ。ほら、どーだ?」
「わぁ、すごいです! 短時間でこんなにたくさん!」

 籠の中にはウイングボールが山のようにできあがっていた。許可を得て一つ手に取ってみると、製造隊の人が作ったそれと大差ない出来栄えだった。
 「これはまとめ売りをしよう」と言って、ギンナンさんは籠を荷車の中にしまうと。

「じゃあ、イモヅル亭に行くとしようか」

 この時間のために仕事を終えたと言わんばかりの表情で、笑った。

 一日の仕事終わりに、イモヅル亭でギンナンさんたちと食事を共にすることは今や日課になってしまった。イモヅル亭にはいろんな料理や定食が揃っているけれど、二日に一度は選んでしまうくらい私はイモモチ定食が好きだった。「いただきます」と手を合わせて、メインのイモモチから口へと運ぶ。うん、今日も変わらない味付けだ。

「ムベさんがお作りになるイモモチは本当に美味しいですね! 自分でも作ってみようとしているのですが、なかなかこの味にはならなく」
「イモモチには並々ならぬ拘りがあるからのぉ。簡単に技を盗まれたら困るというものよ」
「じゃあ、もっともっと食べに来ますね!」
「イチョウ商会には世話になっておるからの。大歓迎じゃよ」

 私は足元に視線を落とした。野点傘の下ではイーブイとリオルが、一枚のお皿に盛られたイモモチを仲良く分け合い口にしている。

「イーブイ、美味しい?」
「イブイ!」
「ワンッ!」
「ふふっ。リオルと仲良くなれてよかったわね」

 仲が良い、といえば。私は目の前に視線を戻した。私が座っている席の向かいには、ギンナンさんとルテアさんが隣り合って座っている。私たち三人で食事をするときの指定席だ。

「おやおや? ルテアはシイタケが苦手だったんじゃなかったか?」
「……ギンナンさん、それはいつのことをお話していらっしゃるのですか。わたしはもう子供じゃありません。シイタケだって食べられるようになりました」

 煮物のシイタケを口に運ぶルテアさんを見て、ギンナンさんが半分からかうように笑っている。ルテアさんは珍しく微笑みを潜ませ、唇を小さく尖らせている。思わず笑い声を漏らしてしまうくらい、穏やかで可愛らしいやり取りだった。

「ふふふっ」
「レインさん?」
「あ、ごめんなさい。ギンナンさんとルテアさんって歳が離れているのに、とても仲が良くて素敵なご夫婦だなぁと思って」
「ええ。ギンナンさんがとても優しいですから」
「一回りも年が離れている奥さんに対して優しいのは普通だろう? 何をしても可愛いからね、ルテアは」
「まあ。子供扱いなさらないでください」
「ははは。それに、結婚して長いからね。二十年……とまではいかないけど、そのくらい経つかな?」
「二十年……?」
「ああ。ルテアが十五になってすぐに結婚したから」
「じゅ、十五歳で結婚!?」

 衝撃、だった。シンオウ地方でも女性なら十六歳から結婚できるけれど、青春真っ只中の少女たちが十六歳のときにその道を選ぶことはほとんどない。それよりも若いときに結婚したなんて、ルテアさんの二十代にも見える外見年齢も相まって驚きとしか言いようがなかった。
 十五歳で結婚したということは、二人の出会いはそれよりも前ということになる。しかも、ギンナンさんいわくルテアさんとは年齢が一回り離れているらしい。出会いや親密になった経緯がどうしても見えてこなくて、好奇心に負けた私はルテアさんに直接聞いてみることにした。

「お二人はどうやって知り合われたのですか?」
「それが……よく覚えていないのです」
「え?」
「確か十三のときに、当時はまたリーダーではなかったギンナンさんからイチョウ商会に入らないかと誘っていただいたことは覚えているのですが……」
「十三歳!? そんなに小さな頃から……?」
「小さい頃からとはいいますが、ヒスイでは十五から大人と同じ扱いを受けますし、二年くらい変わりませんよ?」
「十五歳から大人……」

 そういえば、二人の子供も十五歳で独り立ちしていると聞いた記憶がある。シンオウ地方でも、十代前半の子供たちがポケモントレーナーとして旅を始めることはあるけれど、それでもやはり早熟している感覚は拭えない。
 それよりも、私はルテアさんの様子が気がかりだった。

「でも……本当にどうやって出会ったのでしたっけ……? 確か集落で……わたしは……ずっと雨に……あら……? 集落はどうなって……?」

 ルテアさんのアイスブルーの瞳が、ここではないどこか遠くを見ているようで、胸の奥がざわついた。このままルテアさんがどこかへ消えてしまいそうなくらい、儚くて、不安定で。

「おやおや?」

 ルテアさんの名前を呼ぼうとする前に、ギンナンさんののんびりとした声が食卓に響いた。現実に引き戻されたように、その声を聞いたルテアさんの瞳に光が戻った、気がした。
 ギンナンさんは脇に置いているリュックの中を漁って何かを探しているようだった。

「荷車に財布を忘れてきたようだ」
「まあ、大変です。わたし、とってきますね」
「ありがとう、ルテア」

 席を立って荷車に戻っていくルテアさんの背中を、ギンナンさんは少しだけ険しい顔付きで見つめている。ギンナンさんから「ルテアについて行ってあげてくれ」と頼まれたリオルが、素直にその後を追っていく。
 ギンナンさんはコバルトブルーの眼差しを私に向けた。

「レインさん」
「は、はい」
「おれとルテアが出会ったときの話を、彼女に振るのは止めてもらえるかな?」
「え?」
「……あまり、思い出さなくてもいい話だから」
「思い出さなくてもいい……?」
「あの頃からおれは変わらずルテアのことを愛している。ただそれだけだよ」
「ギンナンさん……?」

 どういうことだろう。ルテアさんの様子がおかしかったことと、何か関係があるのかしら。
 疑問は尽きないけれど、これ以上深入りすることはやめよう。きっと、私が知らなくても問題ないことだし、それに。

「ギンナンさんがそう仰っしゃるのなら」
「ありがとう、レインさん」

 安心したように笑うギンナンさんの眼差しには、確かにルテアさんへの愛情が滲んでいるのだから。


 * * *


 コトブキムラに拠点を置くことになってからは、ギンガ団の長であるデンボクの好意でイチョウ商会にも宿舎を貸してもらえることになった。夫婦であるおれとルテアは当然のように同じ部屋で、起きてから眠るまでの空間を共にしている。

「レインさんと何をお話されていたのですか?」

 湯浴みを終えて寝間着に着替えていると、背中をルテアの声が撫でた。すでに白い寝間着に着替え終わったルテアは、布団を整えているところだった。

「何を、というと?」
「わたしがお財布を探しに戻っていた間です。結局、お財布は制服の衣嚢にあったようですし」
「ははは、最近物忘れが激しくてね。歳かな」
「ご冗談を」

 じ、とルテアが上目遣いにおれを見つめる。
 ――ああ、愛おしい。それ以外の感情が浮かんでこない。
 レインにも言ったことだが、一回りも年が離れていると、ルテアの表情や仕草、感情の何をとっても可愛いとしか思えないのだ。

「可愛らしいおれの奥さんは妬いてくれているのかな?」
「まさか。だって、時空の歪みから現れたレインさんはきっとわたしたちの……」

 そこまで言うと、ルテアははっとした様子で口を噤んだ。やはり、ルテアもレインがどのような存在か察しているようである。その事実を、自分で口にしたことで改めて思い出すことができたのだろう。ルテアはどこか申し訳無さそうに眉を下げている。

「ルテアのことを話していただけだよ」
「! そう、だったのですね」
「ああ」
「申し訳ありませんでした」
「謝る必要はないけど……素直で良い子だね、ルテアは」

 ルテアの群青色の髪に指を通すように、頭を撫でる。まるで雨に触れるかのような肌触りで、ストンと落ちる感触が気持ち良い。しかし、ルテアにとっては少しばかり不足だったようである。また唇を小さく尖らせている。

「……子供扱いなさらないでください。わたしはもう十三歳の子供ではありません」
「わかっている。子供だと思っていたらこんなことはしないさ」
「ん……」

 その指先を髪から頬に滑らせて、上を向かせる。半開きの唇に自らのそれを重ねて、その柔らかさを堪能する。唇を離すと、ルテアの薄氷色の瞳は微かに潤み、陶器のような白肌は薄紅色に色付いていた。
 こんなに可愛らしく、美しく、艶やかに咲いた女性を、誰が子供のように扱うだろうか。
 ルテアを腕の中に抱きしめて、髪に、首筋に、頬に、口付けを落としながら言葉を零す。

「レインさんの反応が普通なんだろうな」
「え?」
「ようやく大人の仲間入りというときに、おれがルテアを女にしてしまったから。十五から大人と同じような扱いになるといっても、世間的には早いのだろうからね」
「でも、ギンナンさんと結婚したのはわたしの意志です。あなたと出会って、わたしがどんなに幸せだったかご存知でしょう?」

 ルテアはおれの手をそっと捕まえると、その手のひらに頬を寄せて微笑んだ。彼女が常に浮かべている笑顔は、誰からも傷付けられないための一種の防衛本能から来るものだが、今は違う。おれだけに見せてくれる、心の底からの幸せを滲ませた笑顔だ。

「手がカサついているだろう。痛くないか?」
「はい、全く。わたし、ギンナンさんの手が大好きです」
「好きなのは手だけ?」
「……そんなわかりきったことをお聞きになるのですか?」
「愛する妻からの愛の言葉は何度だって聞きたいさ」
「……あなたの全てを愛しております。ギンナンさん」

 そう、愛している。おれはルテアを愛している。おれがルテアに抱いた感情は、出会った頃の『哀』で始まり現在の『愛』へと至る。その中に『恋』が芽生えることはなかった。ただ、ひたすらに。

「ルテア……おれも、きみを愛してる」

 笑ってほしいと思うこと。守りたいと思うこと。隣で眠りたいと思うこと。意味もなく名前を呼びたいと思うこと。同じ時間と空間を共有したいと思うこと。
 汚れた感情はいらない。愛には様々な形や種類があるが、その中でもただ綺麗なだけの感情を、おれはこれからもルテアに注ぎ続ける。

「本当に美しく咲いたな。……おれだけの花は」

 行灯の仄かな灯りが照らす部屋の片隅で、おれたちは今日もまた愛を重ね確かめ合うのだ。



2022.03.30



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