涙を掬って食べて
(レイン……レイン……)
声が、聞こえる。ルテアさんのそれではない。海のように深くて、私のことを包み込んでくれるような、優しい声。
そうだ、私はこの声を求めていた。探していた。手を伸ばした。
それなのに、どうして……私はこの声の持ち主の顔も、名前も、思い出せないのだろう。
「っ!」
弾かれたように目を開いたそこに映ったのは、宙へと手を伸ばした右手だった。当然そこには何もなく、何も掴むことがないままパタリと布団の上に落ちる。
そこで、私はいつの間にか自室に帰ってきていることに気付いた。布団に横たわる私の右側にはイーブイ、そして反対の左側にはルテアさんのリオルがいて、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。
私は起き上がりながら、嬉しそうに尻尾を振っているイーブイの頭を撫でた。
「イブイ!」
「イーブイ……ここは、借りている宿舎……? 私たち、オヤブンギャロップに襲われて、私はさいみんじゅつをかけられて……それから……」
そうだ、もうダメだと思ったときに、群青色の光とルテアさんの姿が見えて、それから私は意識を手放したのだ。
「ルテアさんが助けてくれた……?」
「クゥーン」
細く高い声でリオルが鳴いた。瞼を落とせば赤は隠れ、こめかみから垂れた房がふわりと浮き上がり、群青色の光がリオルの体を包む。確かリオルは、波導と呼ばれる不思議な力で仲間同士コミュニケーションを取ることができるという。
リオルが波導を使って程なくして、宿舎の戸を叩く音が聞こえてきた。
「レインさん」
「入っても大丈夫でしょうか?」
「! ギンナンさん、ルテアさん。はい、大丈夫です」
ギンナンさんとルテアさんが部屋に入ってきたとき、微かに見えた外は茜色に染まりかけていた。その空の色が、目の前に並んでいる二人にとても良く似合う気がする、とぼんやり思った。
「よかった。さいみんじゅつをかけられていたようなので、目覚めるまでにもっと時間がかかると思っていましたが、大丈夫そうですね。リオル、教えてくださりありがとうございます」
「ワン!」
「……声が、聞こえた気がして……私を呼ぶ声が……あ」
ルテアさんの顔を見た私は、眠ってしまう前の出来事を思い出して慌てて頭を下げた。
「あの、言われた持ち場を離れてしまってごめんなさい! 私が勝手に行動しなければ、オヤブンギャロップに襲われることもなかったのに」
「いいえ。レインさんはショウさんのことが気になったのですよね? 空の裂け目から落ちてきたショウさんのことをお話したら、レインさんが気にするということまで考えが至らなかったわたしの責任です」
「そんな……っ」
首を大きく横に振りながら、私は項垂れた。迷惑をかけたのは私なのに、ルテアさんは私が沈まないようにと優しい言葉をかけてくれている。その事実がなおさら、情けない。
「ルテアさんが助けてくれて、コトブキムラまで運んでくれたのですか?」
「はい。ここまで運んだのは、わたしではなく警備隊の方ですが……あ。もちろん、ショウさんも無事です。あなたのことを心配していましたよ」
「っ……ありがとうございました」
改めて、深く頭を下げた。額が布団につくくらい、深く、深く。
そして顔を上げると、今度はルテアさんの隣りにいるギンナンさんに向かって謝罪する。
「ギンナンさん、ごめんなさい」
「? おれに何を謝ることがあるのかな? きみは商品をきちんと依頼主のところまで届けたし、その後はたまいしやみずのいしを採ってきたじゃないか。イチョウ商会としての仕事は果たしているよ」
「そうじゃなくて……私の軽率な行動で、大切なルテアさんのことを危険に晒してしまったから」
もし、私を助けるためにルテアさんが怪我をしていたら、ギンナンさんはどう感じただろう。あんなに愛しさを滲ませた眼差しで見つめる相手が傷を負ってしまったら、海の水を掬い上げたような色の瞳は悲しみで濁ってしまうに違いないのだ。
だから、私はただ謝罪した。そうすることで何かが変わるとは思わないし、許してもらえるとも思っていないけれど。
でも、ギンナンさんは表情を緩め、小さい子の過ちを諭すような柔らかい口調で話しかけてくれた。
「ルテアが気にしていないのなら、おれが言うことはなにもない。ふたりとも怪我がなくてよかった」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「しかし、レインさん。これでわかっただろう。……この世界は、そういう世界なんだ。何よりも自分の命を最優先に考えて行動して欲しい。いいね?」
「……はい」
一つの判断、気の緩みが命取りになる。ヒスイ地方とはそんな世界だった。ポケモンは人間の命を簡単に奪える力を持つ存在だということを、改めて思い知らされた気分だった。
そのとき、張り詰めた空気を壊すような抜けた音が、部屋の中に響いた。
「っ……!」
情けない音を隠せるわけでもないのに、私は両手で必死にお腹を抑えた。羞恥心で眩暈がしてしまいそうだし、穴があったら入りたいとはこのことだ。
ほら、ギンナンさんもルテアさんも、笑いを堪えて口元を手で覆っている。
「ふふふ。可愛らしいお腹の音ですね」
「ご、ごめんなさい……! こんなときに私ったら……!」
「仕方ないさ。もう夕方だからね。レインさんは眠っていて昼を食べ逃し……」
そこまで言って、ギンナンさんはいったん言葉を切った。答えはわかっているのに、改めて私に確認することを躊躇っているように感じられた。
「レインさん……ヒスイ地方に来て、なにかを口にしたかい?」
「……いえ、なにも」
改めて思い返せば、昨日の昼頃イチョウ商会に保護してもらってからというもの、何も口にしていないことを思い出した。怒涛のように押し寄せる情報と、新しい世界、そして目の前に与えられたものを消化していくのに精一杯で、食欲という人間としてあるべき欲をすっかり忘れ去ってしまっていたのだ。
「そうです……食べ物のことを失念していました。申し訳ありません、レインさん。ずっとお腹が空いていたでしょう」
「いえ! それは自分でなんとかしないことですし、私もいっぱいいっぱいで何も食べていないことに気付かなかったと言うか……ぁ」
ああ、もう、また。一度空腹を認識してしまえば、正直な私の体は「なんでもいいから胃の中に食べ物を入れてくれ」と言わんばかりに自己主張を始めてしまった。しかし、ギンナンさんもルテアさんも、先程のように可笑しそうに笑う素振りは一切ない。一刻を争うように真剣な表情だ。
「行こうか、ルテア」
「はい。レインさんも一緒についていらしてください」
「え? どこかへ行くのですか……?」
「ああ。レインさんをコトブキムラで一番の食堂に案内しよう」
宿舎を出た私たちは、ギンガ団本部の方向に向かって進み始めた。いつもギンガ団本部の脇に停まっているイチョウ商会の荷車はそこになかった。視線に気付いたギンナンさんが「今日の営業は終了したよ」と笑うと、道を挟んで雑貨屋の反対側に建っているお店の前で足を止めた。
お店の裏には水車が回り、表には野点傘の下に飲食できる食卓と席が設けられている。席に座りながら見上げた青丹色の暖簾には、こう書かれていた。
「『イモヅル亭』……?」
「ああ。おれたちも仕事終わりによく食べに来るんだ」
「ムベさん、イモモチ定食を三つお願いいたします」
「イモモチ定食を三つだな。待っておれ。腕によりをかけて作るからの」
若草色の髭を蓄えた初老の男性は注文を受け取ると、お店の中に入っていった。
それから、待つこと十分弱。私の目の前には、美味しそうな料理が並んでいた。
「おまちどうさん」
「うわぁ……美味しそう……!」
「どうぞ、召し上がってください」
「でも私、お金は……」
「ははは。仕事の経費として落とせば問題ない。な?」
「はい。そのように処理いたしますね」
ギンナンさんとルテアさんは柔らかな眼差しを私に向けてくれている。私たちの足元ではひと足早く、イーブイとリオルが美味しそうなイモモチに齧り付いている。
私は喉を小さく鳴らしながら、食卓の上に視線を落とした。
根菜がたっぷり使われたお味噌汁が入ったお椀からは、微かに湯気が揺らいでいる。小鉢の煮物は濃く色付いていて、よく味が染みていることが食べなくてもわかる。丼ぶりの蓋を開けると、一粒一粒が真っ白に透き通ったふっくらとしたご飯が食欲をそそる。
そして、食卓の真ん中に並べられているのが、おそらくイモモチだ。その名の通り、お餅のような楕円形をしていて表面には軽く焦げ目がついている。箸で一つ摘み上げると、みたらしのようにとろみのあるタレが落ちそうになったので、お行儀が悪いとは思いつつも丼ぶりでそれを受ける。
「いただき……ます……」
イモモチを口元に持っていき、控えめに一口齧る。一日以上何も口にしていなかった私には、それがどんな高級料理よりも美味しく感じられた。
二口目、三口目、と次々に頬張り、味わい尽くすように噛んだあとは喉の中へと流し込んだ。
「っ、美味しい……! もちっとした食感と甘辛い味付けが合いますね!」
「お気に召しましたか?」
「はい! すごく!」
「それはよかった。たくさん食べてくださいね」
ルテアさんがそういうよりも早く、私は二つ目のイモモチに箸を伸ばしていた。美味しくて箸が止まらない、とはこのことをいうのかもしれない。
イモモチの材料はお芋と、片栗粉かしら? 甘辛いタレは醤油と砂糖と味醂にトロミを付けたらできあがりそうだ。
シンオウ地方に帰ったら、作ってあげたい。でも、一体『誰に』作ってあげたいと、思ったのだろう。
そこまで考えたところで、二つ目のイモモチを口へと運ぼうとしていた手が止まる。
「あら、ギンナンさん。口元にタレが」
「む」
「ふふふ。お待ち下さいね……はい、とれました」
「ありがとう、ルテア」
食卓の反対側では、ルテアさんが手拭いでギンナンさんの口元を拭ってあげている。夫婦としてごく自然なやり取りだ。でも、どうして。
頬を生暖かい何かが伝い落ちた感覚。ギンナンさんとルテアさんが、驚いた様子で私を見ている。
「レインさん」
「大丈夫ですか?」
「……あれ……どうして私……泣いて……?」
ギンナンさんが、ルテアさんの名前を愛おしそうに呼ぶ声が。
ルテアさんが、ギンナンさんを見つめる慈しみに満ちた眼差しが。
どうしてこんなに羨ましくて、どうしてこんなに……寂しいのだろう。
涙が止まらない。二人を困らせるだけだとわかっているのに、押し寄せてくる不安を制御することができない。まるで迷子の子供みたいだ。
「お腹を空かせていることに気付いてあげられなくてごめんなさいね」
「ちが……違うんです……なんだか、生きていることにホッとして……それに……っ、あんなに優しく私の名前を呼んでくれる声のことを何も思い出せない自分が、情けなくて……っ、ふ……う……うぅ……っ!!」
ギンナンさんがルテアさんを呼ぶように、私の名前を優しく呼んでくれる声は誰だろう。いくら考えても、思い出そうとしても、私の記憶の中に『貴方』はいない。この世界に来て何度も既視感を覚えたのに、何を見ても『貴方』にだけ結びつかない。
どうして、どうして、どうして。
「っ、ギンナン、さん……」
ギンナンさんの温かい手が私の頭を撫でる。まるでルテアさんに撫でられたときと同じように、撫でられるたびに、本当に少しずつ不安が溶けていく。
「ずっと気を張っていなくてもいい。おれたちはレインさんの味方だから」
「はい。わたしたちの前では楽になさって。いつでも頼ってくださいね」
「っ……ありがとうございます……ギンナンさん、ルテアさん」
どうしてだろう。ギンナンさんとルテアさんがそう言ってくれると、本当に大丈夫のような気がしてくる。このヒスイの土地でも、なんとかやっていけるような力と自信が湧いてくる。まるで、父さんと母さんに見守ってもらえるような感覚だ。
生きていこう、この場所で。そして、必ず帰る方法を見付けて『貴方』のことを思い出す。
「美味しいですね、イモモチ」
口に運んだ二つ目のイモモチは、涙の味がして少しだけしょっぱかった。
2022.03.19