白百合色の可能性


 たまに、不安になる。わたしはこれからどうなるのだろうかと。いつか野生のポケモンに襲われて命を落とすまで、この生活を続けるのだろうか……と。

「ルテアだ! 人間の姿をしている化け物だ!」
「ほら、不気味な光で守ってみろよ!」
「……っ」

 集落に流れる川で洗濯をした衣類を畳んで籠にしまっていると、頭部に鈍い痛みが走った。反射的に手をやると、たんこぶのようにやや腫れているのがわかった。傷の原因になった石は転がって川に落ち、その石を投げた子供たちは悪口を吐き出しながら走り去っていった。
 いつものことだ。石を投げられるのも、化け物呼ばわりされるのも。
 それでも――まだ、わたしの心は痛むらしい。

「クゥン……」
「大丈夫ですよ、リオル。血は出ていないようですし……」
「ルテアさん!」
「!」

 わたしの名前を呼ぶのが誰なのか、姿を見なくてもわかる。この集落でわたしなんかに敬称をつけてくれるのは、たった一人――ギンナンさんだけだ。
 駆け寄ってきてくれたギンナンさんはわたしの横に跪き、視線を合わせた。

「ギンナンさん……」
「石をぶつけられていたでしょう。見せてください」
「いえ、大したことは……」
「見せなさい」
「! は、い」

 はっきりとした有無を言わせない口調に、僅かに肩を震わせた。ギンナンさんはわたしに対しても、他の集落の人と同じように敬語で話してくれていたから、少し驚いてしまったのだ。
 でも、怖くはなかった。敬語を崩してしまうくらい、ギンナンさんがわたしを心配してくれていることが伝わってくるから。

「少し腫れていますね。川の水で冷やしましょう。こっちへ」
「あ……」

 ギンナンさんはわたしの手を引き、川のほとりへと導いた。リュックのポケットから取り出した手拭いを水に浸し、堅く絞るとわたしの頭部にそっと当てる。

「しばらくこうしていてください」
「ありがとう……ございました」
「……よく、あんなことをされるんですか?」
「……」

 情けなさと、不甲斐なさが押し寄せてきて、わたしは何も言えなかった。でも、その無言が肯定であることをギンナンさんは察しているだろう。彼の海碧色の瞳を見つめ返すのが、少しだけ怖い。

「ルテアさん」

 たっぷりの沈黙のあと、ギンナンさんはわたしの名前を口にした。

「あなたのご両親に会わせてもらえますか?」
「!」
「安心してください。さっきのことや、あなたの迷惑になることはしないと約束します」
「……わかり、ました」

 ギンナンさんが何を考えているのか、わたしにはわからない。でも、不思議なくらいあっけなく、首を縦に振ることができた。わたしは自分が思っている以上にギンナンさんに対して心を開き、彼のことを信頼しているらしい。
 頭部の腫れが引いたあと、わたしはギンナンさんを家へと案内した。父さんと母さんはちょうど、外で畑の手入れを行っていた。わたしが帰ってきたことに気付いた母さんは視線を氷のように尖らせたけれど、隣にギンナンさんがいることに気付くと人が変わったような笑顔を浮かべた。

「あらあら、イチョウ商会の商人さん」
「いつもご贔屓くださりありがとうございます。ギンナンと申します」
「ギンナンさん、なんの御用でしょうか? 今日は娘をお使いにやってはいませんが……」
「はい。ご相談に伺いました。明日、お嬢さんを……ルテアさんを一日雇わせていただきたいのです」
「……?」

 一日、わたしを雇う? イチョウ商会の仕事を手伝って欲しいということかしら。でも、ギンナンさんはひとりでも店を十分に回しているし、リーダーのコウヨウさん以外にもイチョウ商会には人が何人もいるはずだ。
 ギンナンさんの意図を理解しかねていると、彼は商人としての表情のまま話を続ける。

「集落から一時間ほど進んだところに渓谷がありますよね。そこで鉱物を採りたいのですが、あの辺りにはポケモンの巣が多くあると聞きます。そこで、ルテアさんの力をお借りしたいのです。彼女の『リオルが放つ』バリアがあれば、危険を冒さずに採ることができるでしょうから」
「……ふーん。それで、娘を貸す代わりにあなたたちは何かをくれるのかしら? 『大事な』一人娘ですもの。そう簡単には……」
「一万円でどーでしょう? もちろん、当日に先払いしますよ」

 その金額を聞いて、父さんと母さんの目の色が変わった。一万円。大人の男の人が一日中働いてやっと稼げるような金額だし、貴重なズリのみを十ほど買ってもお釣りが来るほどだ。

「そうね、悪くないわ。でも、見張りを同行させるわよ。ねえ、あなた」
「あ、ああ。『大事な』娘を傷物にされるわけにはいかないからな」
「ははは、ルテアさんに危険が及ぶようなことは絶対にさせませんよ。では、明日はよろしくお願いします」

 ギンナンさんは一礼すると、踵を返して来た道を戻り始めた。父さんと母さんは……すこぶる機嫌が良いみたいだから、わたしが消えても気にしないだろう。洗濯物を干すのを後回しにしても大丈夫そうだ。
 わたしは洗濯物が入った籠を玄関の脇に置くと、リオルを抱えてギンナンさんを追いかけた。

「っ、ギンナンさん」
「! ルテアさん」
「あの、先程のあれは一体……」
「勝手に話を進めて申し訳ない。しかし、ルテアさんに悪いようにはしないから信じて欲しい」

 ああ。また、だ。その海碧色の瞳で真っ直ぐに見つめられると。誠実さを潜ませた声色で語りかけられると。わたしは、ギンナンさんを信じる以外の選択肢をなくしてしまう。

「わかりました。……あなたのことを信じます」
「ありがとうございます」
「明日、鉱物を採りについて行けばいいのですね?」
「はい。よろしくお願いします。……そういえば、お父さまが同行されるようでしたね」
「そう、ですね」

 そういえば、どうしてだろう。母さんほどではないけれど、父さんのわたしに対する態度も、父親が子に対するそれとは程遠い。二人とも、いつもどこかへ行けと、いなくなってくれと言わんばかりに無関心なのに、どうして。

「それは……逆に好都合だ」
「え?」

 ギンナンさんは笑った。それは、商人としての営業的な笑顔でも、わたしの前で見せてくれたような屈託のない笑顔でもない。狡猾ともとれる笑顔を浮かべた彼の頭の中では、わたしが想像もつかない算段が立てられているのだろう。


 * * *


 明くる日、カイリキーを連れたギンナンさんは本当に一万円分の報酬を包んだ封筒を持って再び家を訪れた。金額を確認した母さんは機嫌良く笑い、わたしと見張り役の父さんを送り出した。
 集落と外の世界を繋ぐ洞窟を抜けて、歩くこと一時間弱。わたしたちは渓谷を訪れていた。ここまでほぼ野生のポケモンに出くわさなかったのは、ギンナンさんが野生のポケモンに出くわさない道のりをあらかじめ調べておいてくれたかららしい。
 渓谷を進んでいくと、川が流れる岩陰の至るところに鉱床が見えはじめた。

「このあたりで採ることができそうですね。ルテアさんとお父様は休んでお待ち下さい」
「えっ?」
「わたしが依頼したのは鉱物採取の手伝いではありません。あくまでも、ポケモンが出てきたときに退ける手伝いをしてほしいのです。……ほら、噂をすれば」
「!」

 わたしたちの目の前に、野生のイシツブテが飛び出してきた。本来水辺には生息しないはずなのに、人の気配を感知して谷から降りてきたのかもしれない。イシツブテを見た父さんが「ヒッ」と息を呑んでいる。ポケモンに襲われ、娘が妙な力に目覚めてしまった経験がある父さんにとって、この状況は苦痛以外のなんでもないのでしょう。
 わたしはリオルに目配せした。リオルが小さく頷いたことを確認すると、一歩前に出ようとした――そんなわたしの前に、ギンナンさんが進み出た。

「カイリキー、マッハパンチ!」

 カイリキーがイシツブテの攻撃を避けた動きに合わせて、ギンナンさんが技の指示を出した。機を見た指示を受けて繰り出されたマッハパンチはイシツブテの急所に当たり、一撃で沈めた。
 守って、くれた。ギンナンさんが、わたしのことを。
 ホッとしたのも束の間。戦闘に集中していたわたしたちの不意をついて、別のイシツブテが飛び出してきた。今度は二体。ギンナンさんのカイリキーが反応するよりも早く、小回りがきく素早い動きでリオルが前に進み出る。

「リオル!」
「ワンッ!」

 リオルの鳴き声と動きに合わせて、群青色の障壁をわたしたちとイシツブテの間に作り上げる。障壁に阻まれたイシツブテたちが怯んだその隙に、カイリキーのからてチョップがイシツブテたちの脳天を貫く。

「助かりました、ルテアさん」
「……はい」

 助けられたのは、わたしのほうだ。守ることや逃げることしか知らなかったわたしを『護って』くれたのはあなたが初めてだから。


* * *


 空が赤く染まり始めた頃、わたしたちは無事に集落へと帰り着くことができた。わたしを家へと送り届けてくれたギンナンさんは、帽子を取って母さんに頭を下げた。

「今日は一日、ルテアさんを雇わせていただきありがとうございました。お陰様でいつもより仕事がはかどりました」

 ギンナンさんはにこやかに笑って封筒を差し出した。それが何かもわからないうちから手を伸ばして受け取るところが、母さんらしい。

「? これは何かしら?」
「追加の報酬です。ルテアさんは先払いした報酬以上の働きをしてくれましたから」
「……!」
「本当なの? あなた」
「あ、ああ。そう、だな」

 父さんは歯切れが悪い言葉を返した。娘は野生のポケモンに立ち向かっていったのに、自分は岩陰で小さくなっていたことを思い出しているのかもしれない。……本当に、何をしについてきたのかしら。

「ほら、何をぼーっとしているの! ギンナンさんの見送りをしてきなさい!」
「は、はい」
「ギンナンさん、うちの子で良ければいつでもまたお貸ししますからね!」

 機嫌よく媚びを売る母さんの声が、気持ち悪い。
 母さんの声を振り切るように背を向けて、ギンナンさんの隣をついて歩く。
 夕焼け空が作り出した大きな影と小さな影が並んでいるのを見ると、なんだか嬉しくなってきた。

「ギンナンさん、あの」
「ルテアさんにはお礼にこれを。今日採れた鉱物の一つです」

 ギンナンさんはリュックの中から何かを取り出すと、わたしに向かって差し出した。わたしが手のひらを広げると、白百合色の小さな石がそこに転がった。一見するとなんの変哲もない小石のように見えるけれど、ただの石をギンナンさんが持って帰るわけがない。

「これはかわらずのいしと言って、ポケモンが別の姿になることを防ぐ効果があると言われています。もし、この姿のままリオルと一緒にいたいのなら持たせるもよし。必要なければ『イチョウ商会に』売っていただけたら言い値で買い取ります」
「……それって」

 誰が見ても価値あるものとわかる金銭として報酬を渡したところで、母さんたちから取り上げられることは目に見えている。だからこそギンナンさんは、一見すると何の価値もないように見えるこのかわらずのいしを、わたし個人への報酬として選んでくれたのだろう。ポケモンとの関わりが薄いこの集落で、ただの石ころにしか見えないこの石を気にする人間はいないだろうから。

「どうして……ここまでてしてくださるのですか……?」

 受け取ったかわらずのいしを胸にギュッと抱きしめて、絞り出すように問いかけた。本当に、わからない。ギンナンさんはわたしに対して、助けてもらったお礼をしたいといつも言っているけれど、わたしはもうそれ以上のものをもらったというのに。
 ギンナンさんはリュックを下ろして、わたしにその中身を見せてくれた。たまいしや、てつのかけら以外にも、稲妻の模様が刻まれている石や、澄んだ水色の石、夜空のように黒い石など見たことがない綺麗な石もある。

「今日採れた成果を見てください。これだけで十……いえ、十五万ほどの値打ちをつけることができるでしょう」
「そんなに……?」
「ええ。いつもならこの半分採れたらいいほうですが、ルテアさんが守ってくれたお陰なんです」
「……わたしが」
「あなたにはそれだけの価値があるし、自分でお金を稼ぐこともできる。もし望むのならば、あなたはどこへでも行くことができるのです。あなたのお父さまも、それを深く理解したことでしょう」

 そうか。ようやく、わかった。ギンナンさんが今日という日を作ってくれたのは、全て今の言葉に説得力を持たせるためにあったのだ。

「わたし、変われるでしょうか?」
「ええ。絶対に」

 不思議だ。やっぱり、ギンナンさんに言ってもらえたことは本当になる気がする。違う、本当にする、のだ。
 わたしは受け取った白百合色のかわらずのいしを宝物のように抱きしめながら、ギンナンさんからもらった言葉を強く噛み締めた。不透明だった未来が、少しだけ、見えた気がした。



2022.03.24


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