薄氷色の瞳


 商売とは縁を結んでいくものだ。目に見えるモノ、あるいは見えないモノを、ある人から別の人へと提供することで繋がりが生まれ、縁は広がっていく。誰かにとっては価値のないものでも、他の誰かにとってはかけがえのない一品となることもある。
 人と出会い、触れ合いながら、縁を結ぶ手助けをする。それはおれが商人という職に魅力を感じている理由の一つだ。
 この小さな集落でも、おれはまた一生に一度の縁を結んだ。

「ルテアさん、どーも」

 ルテア。イチョウ商会がポケモンの大群に襲われたときに、リオルとともにそれを退けおれたちを救った少女。群青色の髪は大海原からすくい上げた海水に浸したようにどこまでも深く青く、薄氷色の瞳は梅雨の雨を凍らせたかのように澄んでいる。
 彼女はおれたちがこの集落に滞在を始めてからというもの、母親の使いと思わしき目的でよくイチョウ商会を訪れるようになった。

「目玉商品、入荷してますけど」
「いつものきのみ……ズリのみを」
「ズリのみですね。少々お待ち下さい」

 ルテアが買っていくものは主に、この辺りにはあまり生息していないきのみや薬草といった日常的に使えるものだ。イチョウ商会は珍しい道具やモンスターボールなども取り揃えてはいるが、それらを手にしたことはない。
 おれはズリのみを包みながら、ルテアの手元を盗み見る。彼女はいつものように巾着袋から硬貨を取り出している。

「どーぞ」
「ありがとうございます」
「ズリのみをお気に召しましたか?」
「え?」
「いつも違うきのみを買っていたのに、ここ最近はズリのみをよくお買い求めになるので」
「はい。……母がこの味を気に入ったようなのです」
「赤い粒は少々硬いですが、ピリッと辛く中央部分は渋くて不思議な味が癖になりますよね」
「はい。それに、すり潰したら薬の材料としても使えますし」
「よくご存知ですね。それから、ズリのみは人間だけではなくポケモンも好んでいるんですよ。ほら」
「あら、リオルったら涎が……手拭いで拭きましょうね」

 ルテアは着物の帯に挟んでいた手拭いを取り出して、リオルの口元を拭った。そのとき、一瞬だけ視界に入った手拭いの隅に刺繍された紋様に、見覚えがあった。

「その手拭いの刺繍は……」
「え? あ……自分で縫ったものなのです」
「ルテアさんが自分で? ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「構いませんが……」
「どーも」

 許可を得て、受け取った手拭いを広げる。四角の隅のうちの一角の、小さな円の周りに翼のような形状の刺繍が施されている。色は辛子色だ。刺繍自体は丁寧で寸分の狂いがなく、何も知らなければその道の職人が縫い付けたものだと疑わない腕前だ。
 しかし、ルテアは手拭いと言ったがその布自体は使い古されており、至るところが擦れて破れかけている。使われている糸は既製品ではなく自ら用意したもののようだ。おそらくむしポケモンが吐いた糸を、きのみや草花を使って染め上げたのだろう。
 もったいない。ルテアの刺繍の腕前ならば、上等な道具と材料を用意すれば高額の値を付けられる品が完成するだろうに。
 商人としての血が騒ぎ、いつの間にか値踏みしていた思考を元に戻す。刺繍の腕の良さもそうだが、気になったのはこの紋様だ。

「ひょっとして、ルテアさんのお母さまはカントー地方北部の出身ですか?」
「! どうして……わかったのですか?」
「イチョウ商会は様々な地方を渡り歩いていますからね。時には山を超え、海を越える。以前はカントー地方の北部……ロータという国に滞在していたことがあるのですよ。この刺繍の紋様はそこに伝わっているものと似ていますから。ルテアさんの名前の響きからも、もしかしたらと思いまして」
「……」

 母親の故郷の話になると、ルテアはただでさえ少ない口数をさらに減らしてしまった。どうやら、あまり触れられたくない話題のようである。
 触れられたくないのは母親の生まれたロータという土地のことなのか。それとも、母親自身の話題、か。
 いずれにせよ、これ以上は詮索をする理由も、する必要もない。商談前の世間話は、相手の緊張を解したり気を許してもらうために行うものである。商人と客としての取引を円滑に行えない話題に、今はそれ以上の価値はない。
 おれは口角を緩ませながらルテアを見上げる。表情を作ることは得意ではないし、商人として致命的ということも理解しているのだが、少なくとも彼女よりは上手いだろう。
 出会ってからというもの、ルテアの「無」以外の表情を、おれはまだ見たことがない。

「ルテアさん。何か欲しいものはありませんか?」
「え……?」
「この前、助けてもらったお礼がまだできていませんから」
「そんな……わたしは長老から命を受けたことをこなしたまでです」
「それでも、わたしが救われたことに変わりはない。何かを返さないと気が済みません。商人としても、わたし個人としても」

 ある品を得るためには相当の金額、もしくは同等の品を用意しなければならない。ある人から恩を受けたら、同じものを返さなければならない。それがおれの信条だ。
 野生のポケモンから身を呈して守ってくれたルテアに対して、商人であるおれが返せるものがあるとしたら、彼女が欲しがっているものを用意する、あるいは情報を提供することが手っ取り早い。
 おれたちは秋が来る頃にはこの地を去る。無償の善意に借りを作ったままでは、いつまでもこの地に未練を残したままになってしまう。

「本当に、結構なので……っ、失礼いたします」

 ルテアは逃げるように視線をそらし、おれの手に硬貨を押し付けると、その場を走り去っていってしまった。
 初めて買い物に来たときから、こうだ。ルテアは必要以上におれと話そうとしないし、関わろうとしない。いや、それはおれに限定されたことではない。彼女は「人間」との関わりを強く避けているように見て取れる。
 サクリ。葉を踏む音が背後から聞こえて、振り向きざまに見上げる。集落の職人と商談を行っていたリーダーが帰ってきて、やれやれと言った様子で笑っていた。 

「ただいま」
「リーダー」
「振られてしまったようだね」
「そういうのではありませんよ。相手は一回りほど歳下の子供だ」
「ははは、わかっているよ。ギンナンが彼女を気にしている理由は、きっとぼくが考えていることと同じだね。……いろいろと「気になる子」ではあるから」

 そう「気になる」子。おれがルテアに「借りを返すべき対象」以外の感情を抱いているとしたら、まさしくそれだ。
 ルテアの年齡はおそらく十五にも達していないだろう。にも関わらず、初めて会ったあの日、集落の長老に命じられた彼女は夜が訪れる間際の時間に集落の外へ出て、おれたちを迎えに来た。自分のポケモンを連れているとはいえ、子供が任されるべき役割ではない。
 それに、あのときのルテアはお世辞にも身なりが整っているとはいえなかった。群青色の髪は無造作に伸び、色白の肌は煤で汚れ、着物は何年も新調していないように薄汚れていた。何らかの理由で虐待、あるいは迫害を受けているのだろうか。長老と、彼女の両親と思わしき男女の会話を聞いているルテアの横顔を見ながら、おれはそう推察していた。
 しかし、初めて買い物に現れたルテアは新しい着物を身に纏い、煤で汚れていた体を清めてきた。その体は華奢ではあるがやせ細っているわけではなく、肌の見えるところに虐待の痕はなかった。また、文字の読み書きや計算、商品の買い方を身につけていることを売買のやり取りから察することができたし、丁寧な敬語は彼女を実年齢より大人に見せた。きのみに関しての知識もあり、虐待されているどころか年齢に相当する教養は受けているようだった。
 そして、今日。ルテアの母親はカントー地方のロータ方面の出身だということがわかった。あの地は波導伝説という言い伝えがあり、波導と呼ばれる力を持った人間が生まれる家系があると言われていた。波導――それは、リオルやルカリオが操ることができる不思議な力と類似している。おれたちを守った「リオルの」群青色の光のように。
 少女の容姿や生い立ちを無遠慮に見定め、推察するべきではないと思いはしたが、これも商人としての性なのだろう。関心と好奇心を満たすために、思考を深掘りせずにはいられなかった。きっと、それだけなのだ。

「おれはただ、借りを返したいだけです。もらいっぱなしでは性に合いませんからね。……ただ」

 ルテアがおれを、そして自分以外の人を見るときの、あの薄氷色の瞳。

「寂しい目をしている子だな、とは思っているけれど」

 冷たい雨を塗り固めような淋しげな瞳の色が、瞼の裏に焼き付いて離れない。



2022.03.05


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