透明色の声


 母さんはわたしを名前で呼ばない。必要以上に視界に入れようともしない。
 わたしは母さんにとって、強迫観念の塊にしか見えていないのだ。

「ちょっと」
「……はい。なんでしょう」

 母さんに声をかけられたわたしは、家の周りを掃除していた手を止めた。今日は一体何を言いつけられるのだろうと思考の片隅で考える前に、一枚の紙切れと巾着を差し出された。

「イチョウ商会までお使いに行ってきてちょうだい」
「イチョウ商会……」
「買ってきて欲しいものはここに書いてあるから。それから、これを着ていきなさい」

 紙切れと巾着を受け取った私の目の前に差し出されたのは、白藍色の着物だった。
 見たところ、特に上等な生地でもない。もしかしたら誰かが使い古したものかもしれない。何の変哲もない普通の着物だ。
 しかし、それはわたしにとって洋装と同じくらい格調高く、美しいもののように思えた。

「いいの、ですか……?」
「他所から来た人間にみすぼらしい姿を晒すわけにもいかないでしょう。体も綺麗にしていきなさい」
「……はい」

 母さんの気が変わらないうちに、わたしは着物を抱え込んで部屋へと走った。川で木桶にたっぷりの水を汲んでいくことも忘れない。水を含ませた手拭いで体を丁寧に拭き、与えられた着物に袖を通す。

「クゥン!」
「リオル、どうですか?」
「ワンワン!」
「ふふふ。新しい着物をいただけるなんて……何年ぶりでしょうか。せっかくなので履物も新しくしましょう。見様見真似で編んでみましたが……うん! なかなかいいですね」

 いきいきイナホから作った藁で編んだ履物は、履き心地が少し硬かったけれど初めて作ったにしては上出来だと思う。次に集落の外へ向かうときまでに、足に馴染ませておかなければ。
 不思議。新しい着物と履物を身に纏っただけで、ほんの少しだけ気分が高揚する。この鬱陶しくて長い髪も切り落とせたらいいけれど……今はまだ、髪を切れない。

「……さあ、お使いに行きましょう。買ってくるものは……? きのみのようですが、どれも聞いたことがありませんね。この辺には生っていないきのみでしょうか」
「クン?」
「イチョウ商会は様々な地方を渡り歩いていると仰っていましたが……きっと、わたしが見たこともないものをたくさん知っているのでしょうね」

 それが少し……いや、とても、羨ましい。


 * * *


 集落を歩いていると、イチョウ商会はすぐに見付かった。銀杏の紋様が目立つ荷車は、集会所の脇に停まっていた。ここは人通りも多いから、商売をするにはうってつけの場所なのかもしれない。

「あ……」

 荷車の前には店番をしているイチョウ商会の人がいた。その人は荷車から取り出した商品を包むと、買い物客に手渡している。
 客が帰ると、その人は簡易的な腰掛け椅子に腰を下ろした。立ち尽くしていたわたしの気配に気付くと、視線が絡み合う。

「どーも」
「……こんにちは」

 その人――ギンナンさんが軽く会釈してくれたので、同じように返す。用心深いリオルは、わたしの肩にじっとしがみついている。
 わたしはゆっくりと近寄りながらも、視線を周囲に彷徨わせていた。リーダーのコウヨウさんは……いないみたいだ。

「リーダーなら他のメンバーと一緒に集落近辺の探索に向かいましたよ。この辺でしか採れない珍しい野草や鉱物があるかもしれませんからね」
「!」
「今日は十分に休息を取ったカイリキーが一緒ですので、万が一ポケモンに襲われても大丈夫ですよ」
「……そうですか」

 ギンナンさんはわたしの思考を次々と見透かすように、先回りして言葉を紡ぐ。コウヨウさんを探していたことも、集落の外に出たと聞いてポケモンに襲われている姿が脳裏に浮かんだのも、お見通しだったみたいだ。
 相手の視線や、表情の変化、口調などから相手の本心を探って、本当に求めているものを提供する。商人とは、そういうものなのかしら。

「ルテアさん、今日はお買い物ですか?」

 ギンナンさんが声をかけたのがわたしだと、しばらく気付けなかった。一呼吸間を置いてから、わたしはようやく視線を上げてギンナンさんを見つめ返した。ギンナンさんは驚いたような顔をしているけれど、きっと、わたしも同じような顔をしているのだろう。

「? 何かおかしなことでも言いましたか?」
「いいえ……わたしの名前を覚えていてくださったのですね」
「職業柄、人の顔と名前を覚えるのは得意なんですよ。それに、あなたはリオルを連れていますし、何よりも命の恩人だ。忘れるわけがありません」
「……」
「珍しい響きの名前ですね」
「……母の故郷ではそう珍しくもありません」

 喋りすぎたことに気付いたわたしは、唇を縫い合わせるように閉じた。だって、悪意なく名前を呼ばれたのも、恐怖を含んでいない声色で話しかけられたもの、随分と久しぶりだったから……嬉しかった、のだ。

「商品を見せていただけますか? ギンナンさん」
「ああ、そうでした。どーぞ。目玉商品、入荷してますけど」
「今日はきのみをいただきたいのです。えっと……」

 わたしは紙切れに視線を落とし、書き綴ってある文字を読む。

「ヒメリのみと、パイルのみ、ズリのみをそれぞれ三つずついただきたいのですが」
「……」
「ギンナンさん……?」
「……ああ、すみません。ヒメリのみ、パイルのみ、ズリのみを三つずつですね。取ってきますのでお待ち下さい」

 ギンナンさんはいったん荷車の中に引っ込むと、一分ほど経ってからまた現れた。包みの上には赤くて丸いきのみと、黄色の楕円形のきのみ、そして橙色の粒が集まり一つの実となっているきのみが、それぞれ三つずつあった。わたしが頷くと、ギンナンさんは包みの口を縛り、わたしにそれを手渡した。

「どーぞ。お代は二五五十円になります」
「え? そんなものなのですか……?」
「ええ」

 この辺りでは見かけない珍しいきのみだから、もっと高値と思ってだけ拍子抜けだった。わたしが巾着から取り出したお金を支払うと、ギンナンさんはそれを木箱の中にしまった。

「どーも。他に何かご入用のものはありますか?」
「いえ……特には」
「そうですか。よろしかったらこちらの目玉商品も見ていきませんか? サービスしますよ」
「……結構です。母が待っていますので」

 お使いだけを頼まれたのに、帰るのが遅くなったら何を言われるかわかったものではない。金額の件も説明しておかないと、あとからややこしいことになりそうだ。

「失礼します」

 踵を返す。その瞬間に、ギンナンさんの声が背中を撫でる。

「ルテアさん」
「……?」
「イチョウ商会は厳しい暑さが緩むまで、この集落に滞在させてもらう予定です。なので、また買い物に来てください。良い品を仕入れておきますので」
「……」

 わたしは小さく頷くと、振り向かないまま帰り道を急いだ。肩では緊張を解いたリオルが力を抜いてのんびりしている。ギンナンさんが悪い人とかいうのではなく、単純に知らない人だから緊張していたみたいだ。

「ギンナンさんって不思議な人ですね。客にあたるとはいえ、わたしのような子供にも丁寧な言葉で喋ってくれて……名前を、呼んでくれて……」

 『見て。ルテアよ』
 『ルテア、おまえの役目は終わったのだから下がるといい』
 わたしが名前を呼ばれるとき、その声の主はだいたい真っ黒な感情を潜ませていた。わたしを人と思っていない、物を扱うような感覚なのだろう。生憎、わたしもまだ立派な人らしい。蔑まれるように名前を呼ぼれたら傷付くし、使い捨てられるように名前を呼ばれたら悔しさだって残る。
 でも、あの人は。ギンナンさんがわたしを呼ぶ声は――透明だった。わたしのことを一人の客として、子供として、人として、名前を呼んでくれた。その声がどうしても、耳に溶け込んで離れない。


 * * *


「ただいま戻りました」
「包みと巾着を見せなさい」
「……はい」

 母さんはわたしが帰るやいなや、包みと巾着を取り上げた。心配しなくても、買ったものやお金をくすねるようなことはしないのに。

「……ふーん。いいわ。小屋に戻って勉強でもしていなさい」
「はい」

 頼まれた数を買ってきたにも関わらず、思いの外巾着の中身が減っていないことに母さんは驚いているみたいだったけど、それ以上は何も言われなかった。これが逆だったのなら、言葉の刃がわたしの心をズタズタに裂いたに違いない。

『ルテアさん』

 恐怖を覚えた体が小さく震え始めたとき、あの声が頭の中に浮かんだ。ギンナンさんがわたしを呼んでくれる、なんの意味も滲んでいない透明な声。ただ名前を呼んだだけ。人が人と話す上で最低限の礼儀。それ以上でもそれ以下でもないのに、わたしは存外、あの声を特別に想っているらしい。

「……深入り、しないようにしないと」

 イチョウ商会がこの集落に滞在している間――秋が訪れるまで、関わりは最低限に。例え、名前を呼ばれることが、声をかけられることが――『人』として視線を向けられることが嬉しくても、必要以上に関わりを持ってはいけない。
 わたしのせいで、ギンナンさんまで周りから冷たい視線を向けられるようになるかもしれない。それだけはどうしても、嫌だから。



2022.02.26


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