海碧色の眼差し


 刺繍が好き。綿の生地に針を通して何かの形を縫い込んていく作業は、一つの命を生み出すことに似ている気がするから。こんな私でも何かを残すことができるのだという、自己満足に浸ることができるから。

「もう少しで完成しますね」
「ワウッ!」
「そうですよ。これは代々家に伝わっている紋様です。上手くできているでしょう? 手拭いにしてもいいですね」

 薬草やきのみを採るために集落の外に出るとき、こっそり持ち帰るものがある。それが、針と糸だ。といっても、針はケムッソの死骸から取り出したトゲだし、糸もケムッソが吐いた残骸をかき集めたものだ。
 それらをこっそり持って帰り、トゲからは毒を抜き、糸をきのみや植物で染めて、刺繍の真似事をする。それがわたしの暇潰しであり、密かな楽しみだった。
 集落のゴミ捨て場で拾った布切れを綺麗に洗って、干して、命を縫い込んていく。薄暗い部屋の片隅で、小さな火の灯りを頼りにしながら、わたしはそうやって時間を消費して一日が終わるのを待つ。
 今日もそうやっているうちに、夜が訪れるのだろう。そう思っていたとき、部屋の戸が開き、一筋の光が差し込んできた。

「来なさい」
「……はい、ただいま」

 それだけを言うと、母さんは戸を勢いよく閉めた。
 わたしは刺繍の道具を床に置き、リオルを抱えて部屋を出た。どうせまた、切らしてしまった薬草を採ってこいとか、木材を拾ってこいとか、ミツハニーの巣から蜜を採ってこいとか、そんなことを命じられるのでしょう。
 様々な可能性を予想しながら家の正面まで回ると、父さんと母さんの前に初老の男性が立っていた。この集落の長老だ。

「長老。娘を連れて参りました」
「うむ。……ルテア。おまえにやってもらいたいことがある」
「わたしに……ですか。何でしょう……?」
「今日からこの集落に商人の集団が滞在する予定になっておる。名をイチョウ商会といってな、地方を渡り歩きながら商いを営んでいるらしい。次のムラまで距離があるからこの集落にしばらく拠点を置き、物資の調達と休養を取りたいとのことだ」
「商人の集団……」
「しかし、到着予定の時間になっても荷車が見える気配が全く無いのだ。もしかしたら凶暴なポケモンに襲われているかもしれぬ。ルテア、外へ出て様子を見てきてくれるか?」
「……」
「イチョウ商会は大きな荷車を引き、紺碧色と山吹色の制服を身に纏っておる。ひと目見たらわかるだろう。万が一ポケモンに襲われていたら、何が何でも救い出して、集落に案内するのだ」
「……はい。かしこまりました」
「そう言ってくれると思ったぞ、ルテア」

 長老は人の良さそうな笑顔で笑う。わたしに「断る」と言う選択肢がないし、そもそも話は決定事項として進められていたけれど。
 わたしは長老と父さんたちに一礼すると、集落の外に向かうため彼らに背を向けた。

「余所者の命などどうでもいいが、イチョウ商会は世界から集めた珍しい物を持っているとも聞くからな。ここで恩を売っておくのも良いだろう」

 他人を心配する良心は欠片もなく、私欲と陰険に塗れた本心からは耳を塞ぎ、わたしは急いでその場を立ち去った。
 汚い、気持ち悪い。そう思えるくらいの感情がわたしの中に在ることに、少しだけ安心した。
 わたしはまだ『生きている』と。


* * *


「今回はもしかしたらいつもより危険かもしれません。リオルはお部屋で待っていてください」
「ワウッ! ワンッ!」
「……ふう。仕方がありませんね。危なくなったらわたしのことは構わずに、すぐに逃げるのですよ」

 部屋で準備を済ませたわたしは、リオルに念を押して集落の外に繋がっている洞窟を通り抜ける。
 この数十メートルの暗闇が、苦手だった。集落から外に出るにしても、外から集落に戻るにしても、地獄から地獄に向かっていることに変わりない。その間に通る道は、暗いけれど静かでわたしを傷付ける者は誰もいない。僅かな安らぎを覚えると、そこから動けなくなってしまいそうになるから。
 ポケモンが近くにいないことを目視で確認してから、わたしは蔦を横に分けて洞窟の外に出た。陽は傾き始めていて、木漏れ日として降り注ぐ太陽の光は薄暗い。急がなければ夜になってしまいそうだ。

「夜に動くのは危険ですね。早くイチョウ商会を見付けないと」
「ワッ! ワン!」
「リオル、お手伝いをしてくれるのですか?」

 リオルはコクリと頷くと、目を閉じて意識を集中させた。すると、耳の下辺りについている房がふわりと浮かび上がり、小さな体は群青色の光に包まれる。
 これはリオルという種族のポケモンが持っている特別な能力で、どうやら人や物を探したり、周りの気配や地形を探ることができるらしい。この力でイチョウ商会を見付けることができたらいいのだけれど、わたしのリオルはこの力をあまり上手く扱えない。戦闘においても同様で、それが原因で弱っているところをわたしが森の中で見つけて保護し、現在に至るのだ。
 リオルだけはわたしを必要としてくれている。ポケモンは恐ろしい存在だけれど、リオルだけは別だ。
 しばらくすると、リオルの周りから不思議な力の気配が消えた。同時に、リオルは太陽が沈む方向を指さした。今日は上手く力を使うことができたらしい。

「ワンッ!」
「あちらですね」

 リオルが示してくれた方角に向かい、急ぎ足で進む。何年使い込んだかわからないほど履き潰した草履は薄く、小石を踏むと足の裏が鋭く痛んだ。
 衣類なんて何年も新調させてもらっていないけれど、草履だけはどうにかしたほうがいいかもしれない。材料の採取にも影響してしまいそうだ。今日はもう無理だけれど、今度外に出るときに藁を採ってきて編んでみよう。
 そんなことを考えながらも、周囲への警戒を解くことなく道を進む。

「……」
「……」
「……声が、聞こえてきますね」
「クゥ……」

 声だけではない。風が木の葉を囀らせる音を掻き消すほどの悲鳴と、破壊の音だ。
 ドクン、ドクン。体から飛び出ししまうのではないかと思うほど、心臓が強く鼓動を刻む。何度集落の外に出ても、何度ポケモンと出くわしても、わたしの恐怖心はまだ失われていないらしい。その事実に、また少しだけ安心できた。 

「あれは、大量発生しているムクバード……?」

 長老が予想していた通り、イチョウ商会と思われる集団はポケモンの群れに襲われていた。
 制服と荷車以外にも、イチョウ商会だと認識できるところはあった。積荷を覆う布には二枚の銀杏の葉と実を思わせる紋様が描かれている。地方を渡り歩いているということからも察することができるように、金髪で肌の色が白い外国の特徴が強い人が多いように見える。

「数体のカイリキーだけでは応戦できていないようですね」

 リーダーと思われる男性がカイリキーたちに指示を出しているけれど、多勢に無勢だ。しかも、今まで出くわした経験から察するに、ムクバード相手ではカイリキーのほうが相性的に分が悪い。
 ムクバードの進化前であるムックルは臆病な性格であることが多く、人を見ただけでも逃げ出すほどだ。進化してもその性質は変わらず、ポケモンや人を襲うときは群れで行動することが多い。だから、予想外の何かを投じてやれば、積荷は諦めるはずだ。
 私はリオルとともに進み出て、荷車を守ろうとしている男性とムクバードの間に割って入った。

「! きみは」
「お下がりください」

 リオルが両手を前に突き出す動作に合わせて、わたしは群青色の光を展開させる。荷車を守るように現れた光の障壁に触れたムクバードは弾き飛ばされ、葉が散るように地面に墜ちた。それを見た他のムクバードは、血相を変えてその場を飛び去ってしまった。
 ふう、と密やかに息を吐く。そして、わたしは敢えてリオルにこう声をかけるのだ。

「リオル、ありがとうございました。お陰でムクバードたちを追い払うことができました」
「ワン」
「これはたまげたな、お嬢さん。ポケモンを使役するのが上手いんだな」
「そのポケモン、小さいのにすごい技を使うんだなぁ」

 すると、ほら。イチョウ商会の方々は、リオルが技を使ってムクバードたちを追い払ったと勘違いをしてくれた。
 カイリキーに指示を出していた男性がわたしの前まで進み出てきて、帽子を取った。よく見たら彼の帽子の正面には、荷車のものと同じ紋様が記章として嵌め込まれている。

「助けていただきありがとうございました。ぼくはイチョウ商会のリーダーを務めているコウヨウです」
「……はじめまして。わたしはルテアと申します。近くの集落に住んでいる者です。到着が遅れているようでしたので、お迎えに参りました」
「……ほう。あなたのようなお嬢さんが一人でね……」

 イチョウ商会のリーダー――コウヨウさんは片眉を微かに釣り上げてみせた。訝しげに思われるのも無理はない。もうすぐ夜の帳が落ちるというこの時間に集落の外へ出ることを許されている子供がいるなんて、訳あり以外の何でもない。

「リーダー」
「ん?」
「自分も挨拶をしていいですか?」
「ああ。そういえば、さっき助けてもらっていたね」
「ええ」

 コウヨウさんに声をかけてわたしの前に進み出てきたのは、二十代半ばから後半と思われる男性――先ほど、ムクバードを退けたときに背後に庇った人だった。落ち着いた銀色の髪と、どこまでも深い海碧色の瞳。すっきりとした顔立ちながらも、目、鼻筋、唇など一つ一つの造形が整っている。商人らしく人当たりのよさそうな笑顔をしているコウヨウさんとは違って、表情はやや硬くどこか気怠げだれど、冷たい印象はなかった。

「先ほどはありがとうございました。わたしの名前はギンナン。よろしくお願いします」
「……ギンナンさん。よろしく、お願いいたします」

 差し出された右手に控えめに触れると、ギンナンさんはわたしの右手を覆うように包んだ。見た目に反して彼の手のひらはとても温かく、久しぶりに触れた人の温もりに思わず鼻の奥がツンとした気がした。


 * * *


「これはこれは、イチョウ商会の皆様。遠方遥々ご苦労様でした」
「いえ。こちらこそ、滞在を許可してくださりありがとうございます」
「ここいらにはムラはもちろんのこと小さな集落すらありませんからなぁ。心ゆくまで休息を取られてください」
「恩に着ます。代わりにと言ってはなんですが、我々が在庫しているものでしたら可能な限り値引いてお譲りさせていただきますので」
「ほっほっほ、それは助かりますな……ん? ルテア、おまえの役目は終わったのだから下がるといい」
「ほら、部屋に戻っていなさい」
「……はい」
「しかし、おまえたちの娘はいい仕事をする。また何かあったら頼んだぞ」
「ええ、もちろんです! 何なりと命じてくださいませ!」

 長老は「いつまでそこにいるのだ」と言わんばかりの口調だった。何も言わずに姿を消したら、それはそれで後から文句を言われるのだから理不尽極まりない。慣れたことではあるけれど。
 母さんの媚びを売るような声を振り切るように踵を返してその場を離れようとしたとき、一つの視線を感じた。海碧色の瞳に宿る感情の色は読めない。わたしのことを哀れんでいるのか、不審に思っているのか、恐ろしく感じているのかもわからない。わたしがその視線を見つめ返そうとしなかったのだから、わからないのも当然だった。
 ギンナンさんの視線から逃げるように、わたしはその場を後にした。

「……ふう。やはり、ここが落ち着きますね」

 光の届かないこの部屋が落ち着くなんて、どうにかしている。でも、それが事実なのだから仕方がない。
 わたしは疲れて船を漕いでいるリオルを膝に乗せて、中断していた刺繍を再開した。
 そのとき。

「っ」

 指先に小さく鋭い痛みが走り、思わず針と布を落とした。針が刺さった指先には鮮血がぷっくりと膨らんでいる。自分のための薬なんて当然持っていないわたしは、それを口に含んで応急処置をする。

「……いたい」

 口内に広がる鉄の味が、わたしの痛みをさらに深めた気がした。



2022.02.13


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