群青色の雨


 わたしの心にはいつも雨が降っている。ざあざあ、ざあざあと、絶え間なく降り続く群青色の雨はわたしの心を冷やしていく。
 このまま凍えてしまえばいいのかしら。雨に溺れたまま目を覚まさなければ楽になれるのかしら。
 それでも、わたしは――光を諦められずにいた。

「見て。ルテアよ」
「ポケモンを連れているなんて、なんて恐ろしいのかしら」
「しかも、あの子もポケモンのような奇妙な力を使うのでしょう? ああ、気味が悪い……」
「ポケモンは怖い生き物だとわかっているけれど、人間の姿をして紛れ込んだ化け物のほうがよっぽどおぞましいわ」
「……」

 わたしは聞こえないふりを貫いて、集落の人たちが話している前を足早に通り過ぎた。腕の中からは青く小さなポケモン――リオルの視線を感じる。
 わたしはリオルの頭をそっと撫でた。言葉にしなくとも、この子は人間やポケモンの感情を正確に理解する能力があるということが、今まで暮らしを共にしてわかった。
 だから、わたしはリオルに伝わるように心の中で唱えるのだ。心配いらない。わたしは大丈夫だから。

 ――大丈夫、だから。

 山肌の窪みに茂る森の中、湖の畔にぽつぽつと建ち並ぶ小さな集落。そこが、私が住んでいる世界だった。大きなムラまで行くには荷物を引きながら一週間以上かかり、集落に住んでいる人以外に接点はほとんどない。外から人がこの集落を訪れることがあるとしたら、旅人が立ち寄って体を休めたり、商人が物を売るためにやってきたりするときくらいだ。
 この集落の人間が外に出ることもほとんどない。一歩外に出てしまえば、そこはポケモンたちが蔓延る危険な世界だからだ。畑を耕し、機を織り、物を作り、薬を煎じ、たまに集落を訪れる商人と物々交換することで、自給自足の生活を送っている。
 それでも、集落にあるものだけで暮らすには限界がある。集落の外に広がる森に自生しているきのみや薬草がなければ、道具や薬を作ることができない。しかし、恐ろしい生き物――ポケモンたちが蠢く世界に足を踏み入れたがる人は誰もいない。
 そんなとき、外に出るのは決まってわたしだった。

 集落と外の世界を繋ぐ出入り口である小さな洞窟を通り抜け、出てきた穴を植物の蔦で隠す。顔を上げれば、そこはもうポケモンたちの世界だ。どこにポケモンが潜んでいるかわからない。いつ襲われるかもわからない。そんな緊張感と恐怖に怯えながら、わたしは目的の薬草を摘んで籠に入れる。

「このくらいあれば、しばらくは大丈夫そうですね」
「キュワン!」
「ええ。急いで戻りましょう」

 リオルを抱き上げた、そのとき。近くを何かが横切る気配を感じたわたしは、反射的に身を伏せた。

「野生のコリンクだわ」
「クゥ……」

 小さく震えているリオルを安心させるように抱きしめながら、わたしは近くの草むらに身を潜めた。
 五十メートルほど先のところに、野生のコリンクがいる。見えるだけでも、その数は三体。彼らはこちらに気付かずじゃれ合って遊んでいるけれど、親のレントラーが近くにいないとも限らない。こちらに気付かれないうちに退散しないと。
 一歩、一歩、身を低くしたまま後退する。目は彼らから逸らせない。逸らした瞬間に、あの鋭い牙が首元に食い込んだらと思うと、恐ろしくて粟立ってしまう。
 少しずつ……慎重に……油断せずに……あと少し……。

「ケムッ!」
「っ」

 コリンクたちばかりを気にし過ぎていたわたしは、背後で眠っていたケムッソに気が付かなかった。尻尾を踏み付けられたケムッソは驚いて飛び上がり、草むらの中へ逃げ隠れてしまった。
 臆病なケムッソでよかった。攻撃的なケムッソだったら、きっと今頃は毒針の餌食だった。
 しかし。

「ガルッ!」
「っ、見付かってしまいましたね」

 コリンクが、こちらに気付いた。彼らが後ろ脚に力を込めて走り出すのと、わたしが彼らに向かって右手を掲げたのはほぼ同時だった。
 相手は恐ろしいポケモン。こちらは非力な人間。おおよそ五十メートルという距離を詰められるのは一瞬だ。逃げられる可能性は無いに等しい。
 それならば――相手がこちらから逃げるように仕向けるだけ。
 わたしが掲げた右手から群青色の光が溢れ出る。それはわたしを守るように円状に広がり、コリンクたちとの間に光の壁を作った。こちらに向かっていたコリンクたちはその威力を落とすことなく光の壁にぶつかり、弾き飛ばされた。
 そのときの、コリンクたちの目。集落の人たちがわたしを見るときと同じ、異端と恐怖の象徴を見たかのような眼差し。
 逃げ帰っていくコリンクたちとは反対に向かって、走る。森の中の道なき道を進み、小川が傍を流れる岩肌の影に身を潜めて、初めて深く息を吐いた。

「はぁ、はぁ……」
「クゥン」
「大丈夫ですよ、リオル。……今日も、生き延びてしまいましたね」

 それは幸運なのか、不運なのか。わからないわたしは曖昧に笑って、リオルを困らせることしかできなかった。


 * * *


「ただいま戻りました。言われた通り、薬草を採ってきました」
「……そこに置いておいて。あとから確認するから」
「はい」

 わたしは薬草が入った籠を縁側に置いて、彼女に背を向けた。彼女――母さんがわたしのほうを見ることは一度もなく、命からがら帰ってきた娘を心配するような言葉ももちろんない。むしろ、今日も生きて帰ってきたのかと落胆しているのかもしれない。母さんはこの奇妙な力を持って生まれた娘を、厄介者としか思っていないのだから。
 わたしはリオルと一緒に自室へと向かった。自室といっても、箪笥も姿見も灯りすらもなく、物置といったほうが正しいかもしれない。戸を開けると三畳ほどの空間があり、そこには薄暗い闇が鎮座している。申し訳程度に置いてある廃れた布切れを体に巻き付けながら、リオルを抱きしめて床に横になる。手入れも何もされていない無造作に伸ばされた髪の感触を頬から払い、わたしはぼうっと暗闇に視線を落とす。

 ――いつから、こうなってしまったのだろう。

 わざわざ記憶を辿るまでもなく思い出す鮮烈な記憶。あれはわたしが十になるくらいだった。それまではわたしも普通の暮らしを送っていた。建築業に携わる頼れる父さんと、農作物を育てる優しい母さん。二人の間に産まれた一人娘のわたしは、二人の愛を一身に受けていた。
 しかし、あの日。きのみを採りに集落の外に出たとき、わたしたちは野生のポケモンに襲われた。恐怖に濡れる父さんの顔と、耳をつんざく悲鳴を上げる母さんを、守りたい。そう強く思ったとき、わたしの手から群青色の光が溢れ出て、ポケモンを追い払ったのだ。
 あのときの両親の顔は今でもよく覚えている。まるでポケモンのように不思議な力を扱う娘を見た瞬間に、今まで愛していたはずの娘は恐怖の対象に変わった。二人は自分たちの身を守った娘を褒めるでもなく、怪我はないかと心配するでもなく、ただ怯えたのだ。
 それ以降、わたしはただそこにあるだけのモノとして扱われている。魔女狩りのように殺されるわけでもく、ただ恐れられている。誰もわたしに手を出してこないのは、きっと報復を恐れてのことだろう。でなければ、わざわざ危険因子を置いておく理由はない。
 何かと理由をつけて危険な場所に材料を採りに行かせられたり、事故に見せかけた不運な出来事に襲われたりしてわたしが生き延びるたびに、集落の人はため息を付いてより恐怖の色を濃くした眼差しをわたしに向ける。
 父さんも、母さんも、集落の人たちも、みんなわたしがいなくなることを望んでいるのでしょう。運良くわたしが死んでくれたら、この得体のしれない恐怖から開放されると思っているのでしょう。わたしのことを、都合のいいときだけ扱うことができる便利な道具と思っている人もいるのでしょう。

 ――それでも、わたしは。

 幼い頃の日々が忘れられないのだ。父さんも、母さんも笑っていて、集落の人たちと手を取り合って生活をしていた眩しい日々を。
 もしかしたら、そんなものは元々なかったのかもしれない。この奇妙な力を持って産まれた時点で幸せな暮らしなんてただの幻想で、力が発現するまでの十年間のほうが淡い夢で、迫害されて生きてきた三年間だけが現実なのかもしれない。
 わたしが自ら命を手放せば。採取の途中でポケモンに襲われて死んでしまえば。この集落を出ていけば。
 そう考えることは何度もあった。生きたまま死んでいるようなこの状態で、人として扱われることもなく在り続けることに意味はあるのかと。
 それでも、わたしがまだここにいるのは。まだこの場所を見限っていないのは。「もしかしたら、いつか」という幻想に期待をしているから。また昔のようにみんなで笑い合えることを夢見ているから。

 光の届かない部屋の片隅で、わたしは今日も光を夢見てそっと目を閉じる。明日になったって、きっと、何も変わりやしないのに。
 ざあざあ、ざあざあ。心の中に降り続ける群青色の雨の音は、止まない。



2022.02.07


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