金色の雨
わたしの心にはいつも雨が降っている。ざあざあ、ざあざあと、絶え間なく降り続く雨はわたしの心を冷やしていく。
雨の中で、わたしは独り立ち尽くしていた。足元には誰かもわからない『人間だったモノ』たちが転がっている。それを見ても不気味だとか、不快だとか、恐ろしいという感情は浮かんでこなかった。
無。心も、体も、何も感じない。わたしは人ではなくなってしまったのかしら。
――でも。
『ルテア』
差し込んだ暁色の光に照らされた銀杏の葉が、とても美しくて、尊くて。こんなわたしにも一欠片の感情が残っていることを知ったとき、頬をあたたかい雫が零れ落ちたのだ。
* * *
「おはよう、ルテア」
柔らかい声が降ってきた。暗闇の中でわたしを呼んでくれた声だ。
瞼をそっと開く。そこには高く澄み渡る秋の空を背にしたギンナンさんが当たり前のようにいてくれて、慈しむような眼差しをわたしに向けてくれていた。
「ギンナンさん……? おはようございます……?」
「どーやら、まだ寝ぼけているようだね? そろそろ出発するよ」
「あら……? わたし、そんなに長く眠っていたのですか……?」
「ああ。気持ちよさそうにね。いい夢でも見ていたのかな」
「……いえ、どちからというと……あまり……よくない夢だったような……気がします」
「……」
「……どんなゆめだったのでしょうか?」
腕の中で大きなあくびをしているリオルを撫でながら、ぼんやりとした記憶を辿る。リオルが首から下げている、白百合色のかわらずのいしを見ていると、少しだけ気分が落ち着くようだった。
暗い場所に、たくさんの赤が飛び散っていたような……。わたし自身も、真っ赤になっていたような……。
思い出そうとしても、どうしても浮かんでこない。まるで、わたし自身が思い出すことを拒んでいるような、釈然としない感覚だった。
「でも、ギンナンさんが起こしてくださったから平気です」
「ああ。悪夢は忘れなさい。……しょせん、ただの夢なのだから」
ギンナンさんの大きな手が、わたしの頬を撫でる。わたしの記憶にかかった靄を、その手が全て覆い隠してくれるような、そんな気がする。
「お父さん! お母さん!」
「休憩は終わりだよ! 出発しようよー!」
「こらこら、仕事中はリーダーと呼びなさい」
「……ふふふ」
伝わってくる体温を享受していると、わたしとギンナンさんの血を受け継いだ二人に呼ばれた。すると、ギンナンさんが窘めるように笑うのだ。そのやり取りを見たイチョウ商会のみなさんは、微笑ましそうに見守ってくれている。
これが、今のわたしが生きる世界。優しくて眩しい、わたしの世界。
わたしが十三のときにイチョウ商会に入ってからというもの、季節が二十回ほど巡った。十五になったそのときにギンナンさんと夫婦になり、すぐに男女の双子を授かった。それから、みんなでいろんな地方を渡り歩きながらこの地を――ヒスイ地方を訪れた。次の拠点となるコトブキムラまで、もう少しだ。
「行こうか、ルテア」
「はい」
ギンナンさんから手を差し伸べられて、その手を取り立ち上がる。すると、脳の奥が鈍く疼いた気がした。
――おまえのつみを、わすれるな。
足を止めたわたしを、リオルが腕の中から不思議そうに見上げている。わたしは心配ないと微笑んで、前を歩くギンナンさんの背中を見つめる。
夢の内容は、よく覚えていない。でも、夢の中で見た景色が忘れられない。こわいなにかで塗り潰された夜に暁の光が差し込んだとき、舞い落ちてきた銀杏の葉がまるで金色に輝いているように見えた。
その瞬間、わたしの世界は洗い流された。
わたしの世界は生まれ変わった。
わたしの世界に光が溢れた。
ギンナンさんが、手を差し伸べてくれたから。
わたしは心の声が聞こえないように、そっと耳を塞ぐのだ。
「わるいゆめはぜんぶ、わすれちゃいましょうね」
季節は今年も秋の匂いを運んでくる。風に流された銀杏の葉が、肩口まで短くなったわたしの髪を優しく撫でる。
今日も、わたしの世界には金色の雨が降っている。
おわり 2022.04.24