暁色のひかり
体感的には、まさに瞬きをする間の出来事だった。イチョウ商会が野営を張っていた景色から、一瞬で森の中に転移した。まだ夜が明けきっていない時間帯だが、この森には見覚えがあった。ルテアが住んでいる集落の外に広がっている森だ。思い返せば、彼女と初めて出会ったのもこの森の中だった。
カイリキーとケーシィを引き連れて、道なき道を進む。ここを進んでいくと、蔦に隠された集落に繋がっている洞窟があるはずだ。
「ん? この匂いは……ズリのみか?」
洞窟が近づくにつれて、ズリのみの香りが色濃くなっていく。カイリキーとケーシィでさえそわそわしているのだから、野生のポケモンたちが嗅ぎつけでもしたら食欲を刺激されてしまうことだろう。
このまま進んでは危険だとわかっている。この匂いに引き寄せられた野生のポケモンがやってくるかもしれない。
しかし、もともと危険を承知で帰ってきたのだ。今さら引き返すことはできない。
「潰されたズリのみがこんなに……!?」
とうとう、おれは洞窟の前まで戻ってきた。そこには潰れ、朽ちつつあるズリのみがそこら中に飛び散っている。このあたりにはズリのみの木はなく、あまりにも不自然な光景だ。
ズリのみで思い出すことといえば、一つだけ、ある。この件には関係のないことだとは、思う。関係のないことだと、思いたい。
落としていた視線を前へと向ける。洞窟を覆っていた蔦は鋭い爪のようなもので引き裂かれており、空洞がぽっかりと口を開けておれを飲み込もうとしているようだった。
望む通り、飲み込まれてやるさ。
カンテラで中を照らしながら、洞窟を進んでいく。不思議なことに、ポケモンの気配はない。しかし、いつ何が起きてもいいように一瞬たりとも気は緩めない。
そして、洞窟を抜けた先に広がっていたのは。
「っ……!」
目をそらしたくなるほどの、惨状だった。
ズリのみの香りはむせ返るほどの死臭に変わった。集落の中には、かつて『人だったモノ』の原型をとどめていない肉片が、そこら中に散らばっていたのだ。
「ルテア……どこだ……?」
この死体を一体ずつ直視しながらルテアを探し当てるのと、おれの精神が限界を迎えるのとでは、一体どちらが早いだろう。いや、直視したところでそれが誰なのか識別はつかない。それでも、目を逸らすわけにはいかないのだ。
こみ上げてくる吐き気に耐えながら、集落の中を進む。これだけ食い散らかしているのだから、ここを襲ったポケモンたちはさぞ満足したことだろう。しかし、また腹が減ったらここに戻ってこないとも限らない。早いところ、おれがここにいる目的を果たさなければ。
カンテラで死体をひとりひとり照らし、顔を確認しながら進んでいく。明らかに大人と思われる死体や、男の死体はわざわざ確認するまでもないが、顔が残っていてなおかつ瞼が開いていたものは、そっと閉じさせた。あまりにも酷すぎる最期を迎えた死者に対して、同じ人間として唯一できる弔いのつもりだった。
一体、二体、三体。初めは死体の数を数えていたが、二十を過ぎたあたりから数えることを止めた。あたりは少しずつ白み始めている。もうすぐ夜明けだ。
そして、集落の外れまで来たとき、おれはその足を止めた。
「……ルテア?」
ルテアが、いたのだ。いつか二人で雨宿りをしながら話した銀杏の木の下に、彼女はいた。色付いた葉が絨毯のように敷き詰められている中で、木の幹に背中を預けて瞼を閉じている。死んでいるのか、それとも眠っているのか、判別がつかない。ルテアには見たところ外傷がないのだ。しかしその代わり、藍白色だった彼女の着物は血で染まり朱殷色になっていた。
「ルテア!」
カンテラをその場に放り、考えるよりも先に駆け寄る。手を伸ばせば触れられる。そんな距離まで近づいたとき。
「っ!?」
青白い光の障壁が、ルテアのことを守るように現れたのだ。
「! リオル……」
「ガルル……」
「リオル……波導が使えたのか? いつもルテアが使っていたからてっきり……」
青白い光の障壁――波導を発動させたのは、ルテアのリオルだった。足元はふらついており、ルテアを庇うように左右に伸ばした腕は震えている。ずいぶんと体力を消耗しているようだ。それでも、赤い瞳を鋭く尖らせ、威嚇するようにおれのことを睨みつけていた。
おれは波導越しにルテアを見下ろした。着物は血にまみれているが破けているわけではないし、やはり体にも傷跡はない。彼女の血ではなさそうだ。となると、それは誰の血か? ……答えは考えるまでもないだろう。
そして、ルテアの手のひらが血とは違う色の赤で……ズリのみの果汁で染まってしまっていることに気付いたとき、おれはすべてを悟った。
「……ルテアがどんな扱いを受けていたのか、そしてルテアが何をしたのか……全てを理解したうえで、ルテアを守ることを決めたんだな」
ルテアのことを想う力が、リオルの波導を目覚めさせた。その力で、リオルはポケモンたちからルテアのことを守っていたのだろう。ルテアが何をしたのか、最初から最後まで、この子はきっと全てを見ている。その上で、リオルはルテアを選んだ。
……そして。
「おれもだよ」
おれも、リオルと同じだ。
膝を折り、ルテアと同じ目線になる。そして、ゆっくりと、幼子に話しかけるように、口を開く。
「ルテア、聞こえているか?」
「……?」
ぴくり。長いまつ毛に縁取られたルテアの瞼が震え、そしてゆっくりと薄氷色の瞳が現れた。その瞳におれの姿を映したルテアは……酷く穏やかに、微笑んだのだ。
「あら? ギンナンさん、どうしてここへ? つぎのムラにむかったのでは? ……あら? わたしはどうしてちまみれなのでしょうか? せっかくのきものが、ほら、こんなにまっか」
「ルテア、きみは……」
「わたしのいえは……? せわをしていたはたけは……? ああ、リオルはいてくれたのですね。よかった」
「……っ」
ルテアは、壊れてしまっていた。言葉も、感情も……自分が罪を犯した記憶も。
手が震えないように堅く拳を作る。深く息を吐き、瞼を落とす。
――今度こそ、後悔しない選択をする。
おれは瞼を持ち上げ、瞳にルテアの姿を映すと、静かに、ゆっくり、こう言い聞かせるのだ。
「いいかい、ルテア。きみの集落は『突然襲ってきたポケモンたちに滅ぼされた』んだ。生き残っているのはきみだけだよ」
「……そう、なのですね。父さんも母さんも、もういないのですね」
「ああ。だから、きみはもう何も気にすることはないんだ」
そして、別れのときに伸ばすことができなかった手を、彼女へと伸ばす。
「ルテア、おれと一緒に行こう」
「……?」
「理由が必要なら……そうだな。イチョウ商会の一員としてきみとリオルを『雇いたい』。きみたちの波導があれば、より安全に旅をすることができるからね」
「……」
「その理由でも足りないのなら」
もう、おれは迷わないし、間違えない。これが同情でもいい。あわれみでもいい。
どんな形であれ、おれはルテアの人生を背負うと決めたのだ。
彼女の罪を隠し、飲み込み、この場所から連れ去る。その理由は。
「おれが、ルテアのことを護りたい。……ただそれだけだよ」
その瞬間、リオルが張っていた波導の障壁が音を立てて崩れていった。それは夜明けを告げる暁色の光に反射してキラキラと輝き、感情を失ったルテアの瞳に一匙の感情を呼び戻す。
その細い肩に腕を伸ばし、包み込むように抱きしめた。改めて触れて知る、線の細さ。途切れそうな息遣い。冷え切った体温。それらを、彼女が怖いと思うもの全てから護ってやりたいと、改めて強く思った。
「ギンナン、さん」
「行こう、ルテア」
もう一度、手を差し出す。ルテアの虚ろな瞳から一滴の涙が零れ落ち、血がこびりついた彼女の頬を優しく撫でていく。
そして、彼女はなけなしの感情をかき集めて――おれの手に、自分のそれを重ねたのだった。
2022.04.20