夜色の決断
火の粉がパチパチと音を立てながら、夜の闇の中を不気味に燃えている。その火が消えないように枝を折って火の中に投げ込むと、それはじわじわと黒く焦げて炭になっていく。その様子をただぼうっと眺める。焚き火の番はいつも眠気との戦いになるのだが、ここ数日はその逆で、自分が眠る番になっても水中にいるかのような息苦しさを抱えて上手く寝つくことができない。
「ギンナン」
反射的に顔を上げる。夜色に浮かんでいるカンテラの灯りは、まるで人魂のようにゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
リーダーはおれの隣に腰を下ろすと、その灯りをそっと消した。
「リーダー」
「交代の時間だよ」
「……交代しなくても大丈夫ですよ。どーせ眠れないんで」
「眠れなくても、横になって目を閉じているだけでも疲れのとれ方は違うよ。次のムラまであと四日はかかるからね。体を休めることも仕事のうちだよ」
「……」
リーダーの言葉は何もかも正しかった。イチョウ商会は旅をしながら商売をする集団だ。疲れて歩けなくなってしまったら話にもならないし、頭が働いていない状態で野生のポケモンに出くわしたらひとたまりもない。
理解はしている。それなのに、眠れなくなるくらいおれの頭の中を占めているのは――。
「考えているのはあの子のこと、かな」
おれたちが数日前まで滞在していた集落に住んでいた孤独な少女――ルテアのことだった。
「まだ十五にもならないのに、気の毒な子だったよ。ロータ地方では英雄とされる力を持っているのに、あそこでは異端のものとして迫害され、中途半端な愛を与えられて育った」
リーダーは、おれが全てを知っている前提で話を進めている。事実、おれは気が付いていたのだ。ルテアの『リオルが放っていた』青白い光が波導と呼ばれる力だということも。それは実際のところルテア自身の力だということも。……ルテアは波導が原因で実の親や集落の人々から忌み嫌われていたことも。
しかし、ルテアは言っていた。母親が自分に対して少しだけ優しくなった、と。それに、おれと共に鉱物を採りに行ったあの日、ルテアはどこか自信をつけたような表情をしていた。
まだ若いルテアの人生にはいくつもの可能性が広がっている。それに、かつては幸せを分かち合っていた家族もいる。今はまだ辛くても、きっと、これからいい方向へと変わっていくと信じている。
だからこそ、おれは彼女の想いに……『一緒に連れて行ってほしい』という願いに気付きながらも、何も言わずに別れを告げたのだから。
「一縷の希望だった、その中途半端な愛すらも偽物だったのだから後味の悪い話だよ」
「……どーいうことですか?」
ため息交じりにリーダーが吐き出した言葉の意味を、理解しかねて問いを返す。リーダーはまるで苦虫でも噛み潰したかのように、顔全体にシワを刻み込み不快感を露わにしていた。
「……彼女は境遇のわりに、彼女は年相応に成長していたことにギンナンは気付いていたかな?」
「え? ええ、まあ」
「じゃあ、ぼくが彼女の母親から売買の取引を持ち掛けられたことを覚えているかい?」
「ええ。確か、取り引きは白紙に終わったと……まさか……」
これほどまでに自分の頭の回転の速さを呪ったことはなかった。商人として機転が利くことは武器になるが……察さないほうが、知らないままのほうが、幸せだということも、時にはあるのだ。
「あの母親は人身売買を持ち掛けたんだよ。彼女を労働源としてこき使うのもよし、さらに高値で転売するもよし、愛玩奴隷として使うもよし……ってね」
「!」
「ぼくにその気がないとわかると、怒り狂っていたよ。売り物にならないのなら、死ぬまで使い続けるだけだと……」
リーダーが最後まで言い終わるよりも早く、おれは地面を蹴りつけるような勢いで立ち上がっていた。
これほどまでに、自分の選択を後悔したことはない。握りしめた拳が痛い。きっと、爪が手のひらに食い込んで血が滲んでいることだろう。でも、きっと、ルテアのほうがよっぽど――痛い。
「っ……!」
「落ち着きなさい」
「そんな親がいるところに、ルテアを置いてきたのか!?」
「……イチョウ商会は違法な取り引きはしない。それに、ぼくたちは来るものは受け入れ去る者は追わないが、自ら誰かを招くことも追い出すこともしない。流れ者の商売とはそういうことだよ」
「だからといって!」
「じゃあ、きみは十五にも満たない少女を親元から離して、その未来を背負う覚悟があったのかな?」
「っ、」
何もかもが正論だ。実際のところ、おれはルテアが自分自身の力で未来を選ぶことができたらいいと思っていた。家族とともに暮らすもよし、親元を離れることが許される年齢になったら旅に出てみてもいい。そんな選択肢など、ルテアにはじめから用意されていなかったというのに。
ルテアをあの親から『買って』イチョウ商会に迎え入れた場合の未来を想定しても、問題点はいくつも浮かんでくる。十五にもならないルテアの道をおれが決めてもいいのか? 親に売られた子供という傷を彼女に残すことになるのではないか? 危険と隣り合わせの人生を送るよりも集落にいたほうが安全ではないのか? その答えを、今もまだ出すことができない。
リーダーの言う通りだ。おれには、ルテアの手を引く覚悟が、なかったのだ。
「!」
「リーダー?」
「ギンナン、聞こえるかい?」
ぱちり、ぱちり。沈黙の中を、ときおり火花が跳ねる。その音に紛れて、遠くから蹄の音が聞こえてきた。数は二体。おそらくこれはギャロップの足音だ。
リーダーはすぐに足音の方に向かって身を構え、気配を察して飛び起きたカイリキーが前に進み出たが、戦闘態勢はすぐに解かれることになった。二体のギャロップには人が乗っていたのだ。
「商人のみなさんですか。こんばんは」
「こんばんは。夜分遅くに急ぎですか?」
「ええ。ここより先にある集落が昨晩リングマの群れに襲われたようで、その知らせをムラに持ち帰るために」
「っ!?」
どくん、どくん。まるで太鼓でも打ち鳴らしているかのように、心臓の音が体中に響いている。
嘘だろう。気のせいだ。おまえの予感は外れている。誰か、そう言ってくれ。
しかし「人口が百人にも満たない小さな集落ですが、作物や染め物を仕入れていたからムラにも多少なりとも影響が……」「生存者は私が見た限りでは……」「あの殺されはあまりにも……」断片的に聞こえてくる会話が、これは現実だということをおれに突きつける。
ルテアが住んでいるあの集落が、ポケモンの群れに襲われたのだと。
「リーダー……っ、数日、暇をもらえませんか? 必ず追いつきますので」
ギャロップに乗った人たちが駆けていったあと、おれは絞り出すような声で懇願した。
たった一人であの集落まで戻ろうとするなんて、危険極まりないし冷静さに欠ける判断だ。おれらしくもない。
……それでも。
「戻るのかい? そこには食い荒らされた死体が転がっているだけかもしれないよ」
「それでも……この目で確かめないことには前に進めない」
もう一度、あの場所に立てたなら。きっと、自分自身の気持ちを整理して、後悔しない選択ができるはずなのだ。
リーダーはため息を吐き出したあと、少しだけ呆れたように笑った。
「カイリキーを連れて行きなさい。万が一ポケモンが残っていても対処できるように。それから、先日捕まえたばかりのケーシィの力を借りるといい。ケーシィは一度行ったことのある場所に転移することができるからね」
「! リーダー」
「ただし、必ず帰ってくるんだよ」
「はい。ありがとうございます」
「まったく、未来のイチョウ商会のリーダーは無茶をする。これを継承する相手がいなくなるのは勘弁してほしいからね。気を付けていってきなさい」
そう言って、リーダーは帽子の正面に輝いているイチョウ商会のトップである証を、爪の先で弾いた。
おれは荷車の入り口を開き、中で眠っていたケーシィに声をかけた。ケーシィは起きているのか眠っているのかわからない顔をしているが、呼びかけに応じて外に出てきてくれたのできっと起きているのだろう。
おれが視線を送ると、カイリキーはすぐに頷いてくれた。
「カイリキー、巻き込んですまないな」
「リッキ」
「ケーシィ、あの集落に……ルテアがいるところまで飛んでくれるか?」
ケーシィが小さく鳴いた、その瞬間。おれの体はまるで風にさらわれるように、時空の狭間に放り投げられた。
2022.04.20