純黒色のこころ
時間の流れが酷く遅く感じる。イチョウ商会が……ギンナンさんたちが集落を出てから三日が過ぎたというのに、集落を歩くたびにわたしの目は紺碧色と山吹色の荷車を探してしまう。
わたしはたっぷりの水を川から汲み上げながら、重いため息を吐き出した。
「はぁ……」
「クゥン」
「大丈夫ですよ、リオル。以前と同じ生活に戻っただけです。雑用をこなして、暗い部屋の隅で勉強と刺繍をしながら日々を消費する……そんな日々が戻ってきただけです」
「クン……」
「でも、もしかしたら、いつか昔のようにみんなで暮らすことができるかもしれません」
わたしが、この『力』をもっと集落のために役立てることができたら、みんなわたしのことを認めてくれるかもしれない。以前よりも強くそう思うことができるようになったのは、きっと――。
『もし望むのならば、あなたはどこへでも行くことができるのです』
ギンナンさんにもらった言葉が忘れられない。わたしはいつか、わたしだけのために生きていけるかもしれない。彼から貰った言葉を反復するたびに、そんな自信と希望が湧いてくるようだった。
「いつか……わたしが十五歳になったら……」
独り立ちすることが許される年齢になったら、集落を出ていろんな世界を見て回りたい。そんな密やかな夢もできた。全部、ギンナンさんのお陰だ。ギンナンさんの、お陰、なのだ。……もう、彼はどこにもいないけれど。
水が入った木桶を持ち上げて、またため息。感傷に浸りながら家へと戻ろうとしたとき、わたしの視界の隅で何かが動いた。
「え?」
まん丸な顔と尻尾と耳。額には三日月の模様。無垢でつぶらな瞳。愛らしい姿に反して手足の爪は小さくも鋭い。
見たことのないポケモンが、集落の中を歩いていた。
「まさか、野生のポケモン……?」
数は一匹。そのポケモンはとある家の畑まで来ると、小さな拳を木の幹に叩きつけた。小さい体からは想像がつかないほどの力だ。大きく揺れた木からはモモンのみが落ちてきて、ポケモンはそれを嬉しそうに集めている。
次に、そのポケモンはケムリイモを育てている家の畑に狙いを移した。ポケモンはケムリイモを引き抜くと、わたしが見ていることに気が付かないまま、集落の外へと続く洞窟の中に消えていった。
まさか、外界とこの集落を繋ぐ洞窟の入口を見つけられた……?
「ポケモンが畑を荒らしている……どうしましょう、大人に報告をしたほうがいいのでしょうか」
「ワン」
「でも、もしかしたら集落の誰かが使役しているポケモンかもしれませんし……」
基本的に、この集落の人間はポケモンを恐れていて、使役している人はほぼいない。わたしのリオル以外だと、家の番をしているガーディや、力仕事を手伝ってくれるワンリキーをたまに見かけるくらいだ。
家に帰る道中でも「おれんちの畑がぐちゃぐちゃだ!」「見ろよこれ! でっかい爪痕!」といった会話が聞こえてきた。どうやら集落全体が畑荒らしの被害に遭っているらしい。
わたしが家に戻った途端に、表に出ていた母さんは眉をつり上げてわたしを怒鳴りつけた。
「ちょっと、どこに行っていたの!?」
「! すみません、川まで水を汲みに行っていました……」
「畑を綺麗にしてきてちょうだい!」
「は、はい」
「まったく、こんなんじゃ売り物どころか食べることもできないわ」と言っている母さんの不機嫌な声に急かされて、家の脇にある畑へと向かう。
掘り起こされた野菜。食べ散らかされた果物。耕した土に残っている大きな爪痕。あまりにも酷い有様に、しばらく言葉を失ってしまった。
「……うちの畑も荒らされていますね……」
「クウン」
「大丈夫、なのでしょうか……」
胸騒ぎがする。何かが大きな音を立てて壊れてしまうような……そんな予感がするのだ。
* * *
わたしは布切れを身体に巻きつけて、目を閉じたまま何度目かもわからない寝返りを打った。痩せて飛び出た骨が硬い床に擦れて痛い。それが余計にわたしから眠気を奪っていく。
なかなか眠ることができない一番の理由は、昼間見た畑荒らしのポケモンのせいだけれど。
「眠れませんね……」
「……ワゥ?」
「あ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「クアァ〜ッ」
「ふふふ。大きなあくび。……わたしは少し風に当たってこようと思いますが、リオルは眠っていてください」
「ワウウ!」
「嫌なのですか? では、一緒に行きましょう」
リオルを抱いて、物音を立てないようにそっと部屋をあとにする。
夜の集落は新鮮だった。澄み切った空気は景色をより美しく見せてくれる。夜空に輝く星たちはそこから零れ落ちてきそうなほど、美しく瞬いている。
「涼しくて過ごしやすい夜ですね……星空がとてもきれい」
サクリ、サクリ。歩んでいた足をピタと止める。星や月とは違う光がわたしの目に飛び込んできたのだ。
「集会所に灯りが……?」
集落の真ん中にある空き地は、会合や催しを行うとき使用される集会所の役割を持っている。そこでは、大人たちが神妙な顔付きで焚き火を囲み、何かを話し合っているようだった。
「集落の大人が集まっていますね……何を話しているのでしょうか。長老や……父さんと母さんもいますね」
「クゥン……」
「リオル、どうしたのですか?」
リオルは酷く怯えた様子だった。それに、耳の下に付いている房が微かに揺れている。もしかしたら、何かよくないことを感じ取っているのかもしれない。
わたしはリオルを抱きしめて、絶対に喋らないように念を押したあと、物陰に隠れながら大人たちがいるところに近づいていった。
「集落の誰かが使役しているポケモンの悪戯と思っていたら、どうやら違うようです。日に日に荒らされ方が酷くなっていて……」
あと三メートルという距離まで近づき、樽の影に身を隠したまま息を潜める。微かだけれど、大人たちが話している内容が聞こえてきた。やはり、昼間畑が荒らされたことについて対策を練っているみたいだった。
「数日前から集落の畑や米びつが荒らされておる……現場に残っている鋭い爪痕は、おそらくヒメグマのものだ」
「ヒメグマ……あの小さなポケモンが?」
「今は小さくとも進化すれば姿かたちが変わり、あのリングマになる」
「リングマ!? あの凶暴な……!?」
「ヒメグマは、普段は親に守られながら生活をしているが、冬が近づいてくると食べ物を探して縄張りへと持ち帰るという。……今は子供だけが来ているようだが、大人のリングマがくるのも時間の問題だろう」
「そんな……苦労して育てた作物が」
「作物だけならまだいい。それが尽きたとき、奴らが次に獲物とするのは……人間だ」
「!」
「血肉の味を覚えられる前に、ここを去ったほうがいいかもしれぬ」
「集落を捨てるのですか!?」
「みんなの命には代えられんよ」
「……そう、ですね」
「そうと決まれば、早いほうがいい。明日中に最低限の荷物をまとめ、最寄りのムラに向かって出発するとしよう。事情を話せば我々を受け入れてくれるはずだ」
「しかし、この人数で動いていたらポケモンに気付かれませんか?」
「そうだな……では、囮を使うとしよう」
長老は、わたしの父さんと母さんに視線を向けると。
「おまえたちの娘、もういらぬな?」
そう、言ったのだ。
リオルを抱えている手が震える。喉はカラカラなのに、冷や汗がこめかみを伝い落ちていく。
長老はわたしを囮にして、その隙にみんなで集落から逃げ出そうとしているのだ。信じられない。信じたくない。
父さん、母さん。どうか首を横に振ってください。大切な娘を犠牲にはできないと、断言してください。
「……長老」
しかし――わたしの願いはいとも容易く、儚く、崩れ落ちる。
「ええ、ええ! あの子、危険な場所へ使いに出してもしぶとく生きて帰ってくるんだもの。いつか売り物にでもならないかと思ってそれなりの教養を身につけさせて、体に傷がつかないように育てたのに、イチョウ商会のあのコウヨウとかいう男ったら「そのような商売はしておりませんので」ですって! ああ、どいつもこいつも、なんて忌々しいのかしら!」
「おい、落ち着かないか」
「代々、波導使いを輩出してきた名家!? だったら、何も力を持たなかったあたしは出来損ないなの!? 腫れ物を扱うような目で見られるのが嫌だから、ロータを出てこんなところまで来たのに……どうしてあいつは波導の力を持っているのよ!!」
頬を掻きむしり、髪を振り乱し、目を血走らせて――母さんはまるで癇癪を起こして騒いでいる子供みたいだった。それほどまでに、母さんにとってわたしという存在がどれだけ疎ましいのか、思い知るには十分だった。
「あいつが生きていたらあたしは永遠にこのままだわ……だから、ええ、ええ! 長老。あの化け物を……ルテアを差し出しますわ。集落のためですもの」
久しぶりに名前を呼ばれたのに、こんな……こんな……。
「明日の朝にでも殺して、死体を集落の外へ……」「ポケモンが引き付けられているうちにここを離れて……」
大人たちはまだ何かを話している。でも、もうどうでもいいことだ。
わたしはそっとその場を離れた。ふらり、ふらり。わたしは上手く歩くことができているだろうか。
「クゥ……クゥ……!」
リオルが小走りでわたしの足元に寄ってきてくれた。歩みを止める。まともに働こうとしない脳が、また一つ最悪の現状を察する。
ギンナンさんから雇ってもらった日を境に、母さんがわたしに対して優しくなったと感じるようになったのはもしかしたら、わたしが売り物になることを証明できて機嫌が良かったからだったのかもしれない……と。
ああ、もう、本当に――滑稽ったら、ありゃしない。
「ふふふふふふふふふ」
「クゥ?」
「ふふふふ……ああ、可笑しい……わたしは今まで、ありもしない未来を夢見ていたのですね」
「クーン……」
「どんなに頑張っても、みんなと笑いあえる日々は戻ってこない。髪を伸ばし続けても……母さんが「綺麗な髪ね」って言いながら梳かしてくれることはもう二度とない」
事実を改めて口にすると、それは確かな輪郭を持ちわたしの心に突き刺さり、そこからどす黒い汚水が心の中に流れ込んでくるような感覚を覚えた。
みんな、わたしのことをこう呼んでいた。『化け物』と。
「お望みのとおりなってあげましょう……化け物に」
純黒色に塗り潰されたわたしの心は、もう、どこにも還れない。
2022.04.14