朽葉色の初恋


 空気が澄み渡り、鱗雲が青空を泳ぎ、赤や黄に色付いてきた葉を涼しい風が撫でる。
 秋の匂いは、わたしが思っているよりもすぐ近くまで来ていた。

「ねぇ、イチョウ商会まで買い物に行ってきてちょうだい」
「! はい、ただいま」

 開けられた戸の隙間から母さんの声が入り込んでくると、私はすぐに読んでいた本を閉じて蝋燭を吹き消し、眠っているリオルを起こさないように部屋の外へと向かった。

「ズリのみでよろしいでしょうか?」
「ええ」
「かしこまりました」

 いつものようにお金が入っている巾着を受け取りながら、わたしの頭の中はすでにギンナンさんのことでいっぱいだった。
 一緒に雨宿りをした日から、ギンナンさんは彼の素といえる口調でわたしと話してくれるし、当たり障りのない世間話ではなく彼自身の話を聞かせてくれるようになった。採取の途中にポケモンから追いかけられた話とか、趣味のクラフトの話とか。
 もちろん、商人と客としてのやり取りが終わったあとに、次のお客さんが来るまでの短い間だけれど、わたしにはその時間が楽しみで仕方なかったのだ。
 今日はどんな話をしてくれるのだろう。わたしは呑気にそんなことを考えていた。

「ただし、いつもより多くね。数はここに書いているから」
「えっ?」
「しばらく手に入らなくなるから買いだめておかなきゃ」

 母さんが話している言葉の意味を、うまく理解しきれない。違う。理解しようとすることを、脳が拒んでいる。

「イチョウ商会は明日、集落を出て次のムラに向かうらしいわ」

 母さんの言葉は無情にも、わたしの耳から滑り込み脳へ深々と突き刺さった。


 * * *


 足取りが、重い。まるで初めてイチョウ商会へのお使いを命じられたときみたいだ。
 ギンナンさんに会って、わたしは平静を保っていられるだろうか。わがままを言うことも、怒ることも、泣くこともなく、いつものように笑っていられるだろうか。
 いつもの場所に、イチョウ商会の荷車が停まっている。その前には店番をしているギンナンさんの姿がある。いつもと同じ光景だ。彼があまりにもこの景色に溶け込んでいるから、わたしは忘れていたのだ。
 ギンナンさんがいるこの景色は、当たり前ではなく特別だったということを。

「どーも、ルテアさん。今日も目玉商品を……」
「ここを、出ていくのですか?」

 ほら、わたしはギンナンさんを責めるような子供じみた言葉を吐き出してしまった。ギンナンさんは微かに目を見開くと、その視線をそらさずに、わたしの目を真っ直ぐ見つめ返してくれた。

「この集落に滞在して三ヶ月ほど経ったかな。物資の補充と仕入れ、それから十分な休息もとることができたし、夏の暑さは過ぎて旅をするには適した気候になった。次は積雪が多い冬までに、色んなところを渡り歩きたいからね」
「そんな、突然……」
「集落を訪れたときから決まっていた期間だよ」

 イチョウ商会は、厳しい暑さが緩むまで……つまり秋が訪れるまで、この集落に滞在することは知っていた。でも、具体的にいつまでという話は聞いていない。当然だ。お使いを頼まれているだけのただの子供に教える義理なんて、ギンナンさんたちにはないのだから。長老や母さんたちは知っていたかもしれないけれど、わたしはそんな立場にいない。
 噛み締めた唇を無理矢理緩めながら、わたしはいつもの言葉を紡ぐ。

「ズリのみを……ください」
「ズリのみだね。すぐに準備するから待っていて」

 ギンナンさんがズリのみを丁寧に包んでいく様子を、わたしはぼんやりと眺めていた。こころなしか、いつもよりも作業が遅いというか、ギンナンさんは時間を稼いでいるように感じられる。
 もしかしたら、罪悪感からわたしといる時間を延ばそうとしてくれているのだろうか……なんて。自分の都合のいいようにしか考えられないわたしは、なんて狡猾なんだろう。

「どーぞ、お待たせしました」
「ありがとうございます」
「それから、よかったらこれを」

 ギンナンさんはズリのみが入った包みの他に、一冊の薄い冊子を差し出した。少し色褪せてはいるものの、破れや欠けなどはなく表紙もきれいだ。風を通すように中をパラパラと捲ってみると、わたしにもわかる文字で文章が綴られていて、所々に柔らかな線の挿絵があった。

「これは、本ですか?」
「ああ。ルテアのお母さまの故郷……ロータに伝わっている伝説を物語として描いたものだ」
「! ロータの……」
「おれが本を読んでいるとよく気にしていたから、本が好きなのかと思ったんだが、違うか?」
「いいえ。本は好きです。でも、読むのはいつも勉学に関するものばかりで、小説などの架空の物語は読んだことがなくて……」
「だったら、なおさら受け取ってみて欲しい。学びを得ることはもちろんいいことだけど、娯楽として読む本も面白いからね」
「……ありがとう……ございます」

 娯楽なんて、この先わたしには一生無縁だと思っていたのに、こんな形で手にすることができるなんて。
 わたしは受け取った本を胸にぎゅっと抱きしめた。本当に、いただいてもいいのだろうか。外国の本なんてきっと高価だし、それに見合うものをわたしは持っていない。

「あの、でもわたし、お代は」

 わたしの言葉を遮るように、ギンナンさんは静かに首を横へと振った。

「これで、助けられた借りを返すことができたかな?」

 その言葉で、ギンナンさんは本当にここからいなくなってしまうのだということを強く思い知ってしまった。まるで鈍器で頭を殴られたような気分だった。


* * *


 抜けるような青空に、黄葉した銀杏の葉が美しく映える。秋はこんなに近くにいたのに、どうして気付くことができなかったのだろう。
 いや、もしかしたら気付こうとしなかったのかもしれない。秋になったらこのときが訪れるという事実から、本能的に目をそらしていたのかもしれない。

「長い間お世話になりました」
「いえいえ。こちらこそ、良いものを安く売っていただいて助かりましたよ。次のムラまで短く見ても一週間ほどはかかります。道中お気をつけてください」
「はい。ありがとうございました」

 長老とコウヨウさんが最後の挨拶を交わしている様子を、どこか他人事のように眺めていた。周りを見ると、長老だけではなくイチョウ商会と関わった集落の人たちが見送りに集まって、別れの言葉を交わしている。
 改めて見てみると、イチョウ商会には色素の薄い人や反対に濃い人が多く、本当に異国からやってきたのだということを実感する。そして、異国からやって来た彼らは、また異国へと流れるように旅立っていくのだ。まるで秋風のように。

「ルテアさん」
「! ギンナンさん……」

 この三ヶ月間、幾度となくわたしの名前を呼んでくれた透明な声。この声から別れの言葉が紡がれるなんて、信じられない。信じたくない。でも。

「……っ、」

 ギンナンさんは何かを言いかけたあと、その唇を一度ぎゅっと結び――。

「滞在中は何かとお世話になりました。どうかお元気で」

 ――商人としての笑顔を浮かべて、別れの言葉を吐き出したのだ。
 ギンナンさんはわたしの肩にいるリオルを撫でながら、わたしが何か言うのを待っているようだったけれど、わたしは何も言えなかった。「こちらこそお世話になりました」「さようなら、お元気で」「またいつかお会いしましょう」どれもわたしの本心ではない言葉ばかりだ。口にしてしまえば、本当に永遠に会えなくなってしまう気がして、怖かった。

「さあ、出発しよう。ではみなさん、お元気で!」

 コウヨウさんの掛け声を合図に、カイリキーたちがそれぞれの荷車を引き始める。イチョウ商会のみなさんはリュックを背負い、荷車の周りについて歩みを進める。
 わたしの目の前に最後までいてくれたギンナンさんも、彼らと同じ道を進む。背を向けるその瞬間に浮かべていた寂しそうな笑顔が、目に焼き付いて離れない。
 わたしは何も言えなかった。何もできなかった。あんなに優しくしてくれたギンナンさんを、悲しませたまま旅立たせてしまった。
 でも、わたしだって――さみしい。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

「行ってしまったな」
「ええ。よくわからない連中だったけれど、あたしたちには他よりも安く売ってくれているようだったから助かったのに」
「え?」

 密やかに交わされた父さんと母さんの言葉が、わたしを現実へと引き戻した。

「そう、なのですか?」
「気づいていなかったの? よその地方の名産品や、危険な場所に生えているきのみをあの値段ではふつう売れないよ」
「あ……」

 確かに、初めてイチョウ商会で買い物をしたときに違和感はあった。思っていたよりも商品の値段が安く、でも何度足を運んでもそれは変わらなかったから、それが定価だとばかり思っていた。

「この集落に住む全員というわけではなく、どういうわけか我が家だけに値引いてくれていたみたいだからね。……あんた、ギンナンとかいうあの若い男に色仕掛けでも使っていたんじゃないの?」

 蔑むような母さんの声も心に響かないくらい、わたしは動揺していた。
 鎌を修理してくれただけではなく、わたしの『力』に価値があることを教えてくれただけではなく、本を贈ってくれただけではなく。
 もしかしたら、ギンナンさんはずっと、わたしに借りを返し続けてくれていたのかもしれない。わたしが知らないところで、ずっと……ずっと。


 * * *


 どうやって家まで戻ったのか、よく覚えていない。一足早く散ってしまった朽葉色の葉を踏みながら、家までの道のりを歩いたことは薄っすらと覚えている。家の畑が荒れているような気がしたけれど、だからといってそれを整える気にもならず、気づいたら薄暗い部屋の隅にうずくまり、膝を抱えて宙を見ていた。

「クゥン……」
「リオル……」

 心配そうに鳴くリオルを安心させるように、優しく抱き寄せて頭を撫でてやる。ギンナンさんが最後に触れてくれていたように、優しく、優しく。
 ふと、座卓の上に置いてあるものが目にとまる。

「ギンナンさんがくれた本……」

 昨日はあまりの衝撃で、開くことも忘れていたけれど。
 わたしは蝋燭に火を灯すと、頁を捲り綴られた文字を追いかけた。
 それは、波導の勇者と呼ばれた一人の男性と、同じく波導を使う一人の女性の物語だった。波導と呼ばれる不思議な力を持った二人は戦争を止めるために出会い、その中で心を通わせてお互いを想い合うようになった。最終的に二人は戦争を止めるために亡くなってしまったが、二人の命を繋いだ少年が旅を始めた最後の頁では、思わず涙ぐみそうになってしまった。

「これは……恋愛小説というものでしょうか」

 わたしは物語を読んでいて、この女性に自分の姿を重ねてしまった。名前を呼んでくれるだけで嬉しく想い、その人のことをもっと知りたいと願い、傍で一緒に笑えることを幸せだと感じる。
 物語中で描写されていた女性の想いは、わたしがギンナンさんに対して抱いているものと同じ感情だ。

「そっか……わたしは……ギンナンさんのことが好きだったのですね」

 それが恋だと気づいた瞬間に、わたしの恋は落ち葉のように散ってしまった。幼すぎたわたしは自分の想いを伝えるどころか、気付くことすらできないまま、ギンナンさんを見送ることしかできなかったなんて。

『もし望むのならば、あなたはどこへでも行くことができるのです』

 想像せずにはいられない。もし、わたしがこの恋心に気付き、手を伸ばしていたならば、ギンナンさんはその手を取ってわたしを連れて行ってくれていたのだろうか、と。
 そんなもしもの話をいくら妄想したところで、もう何も元には戻らないのだけれど。



2022.04.11


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