鶸色のひととき
少しだけ……ほんの少しだけ、いい方向に変わり始めている気がする。それは思い違いではないのだと、信じたい。
「ただいま戻りました。外の草むしりをが終わりました」
返事が返ってくるとは思わなかったけど、家に戻ったわたしはいつものように報告をした。珍しいことに、母さんは来客用の茶器を棚から出している。お客さんでも来るのだろうか。
「あら、早かったのね。……ねぇ、林に行って焚き付け用の薪を集めてきてちょうだい」
「かしこまりました。いきましょう、リオル」
「ワン」
草むしりの次は薪集め。集落の外に単独で向かわされるよりも遥かに簡単で安全な仕事だ。
ギンナンさんがわたしを雇ってくれた日から、危険な仕事を任されることが減った……気がする。
……それに。
「手を怪我しないように気をつけるのよ。あと、天気が怪しいから雨が降ってきたら無理をしないで雨宿りしなさい」
「! は、はい!」
わたしは思わず大きな声を出してしまった。不思議そうにしている母さんに「い、行ってきます」と告げてそそくさと家を出る。
胸の奥で、心臓が強く鼓動を刻んでいる。恐怖ではなく、これは……小さな喜び、だ。
「母さんがわたしの心配をしてくれるなんて……いつ以来でしょうか」
わたしが不思議な力に目覚める前……普通の家族だった頃は転んで膝を擦りむいただけでも心配してくれていた。最近は心配どころか、生きて帰ってくることを煩わしく思われていたように感じていたのに。
これもギンナンさんが計らってくれたお陰、なのかもしれない。
「さあ、林に着きました。たくさん拾って帰りましょう」
「ワンッ」
「……母さんが喜んでくれるといいのですが」
集落の外れの林に辿り着いたわたしたちは、薪拾いを始めた。焚き付け用の薪ならば、細めで着火しやすい杉の木が理想的だ。
ちょうどいい大きさの薪を拾っては、背負い籠の中に入れる。手を怪我しないように、気を付けながらそれを繰り返した。
リオルとふたりで夢中になって薪を拾っていると、ポツ、と鼻先に冷たい水滴が落ちてきて顔を上げる。空は鉛色の雲に覆われていて、今にも滝のような雨が降ってきそうな雰囲気だった。
「あ……雨が降ってきましたね」
「ワン」
「……雨は、少し苦手ですね」
わたしの心の中にはいつも雨が降っている。ざあざあ、ざあざあ。降りしきる雨はわたしの心を、感情を冷やして『生きたい』と思う人間として最低限の本能を奪っていた。
父さんからは無視されて、母さんからは邪険にされ、集落の大人からは恐れられ、子供たちからは石を投げられ、そして危険と隣り合わせの仕事を任される毎日。生きながら死んでいるような、まさにそんな感覚で今までを生きてきた。
でも、今は少しだけ、雲の隙間から薄い光が差し込んだような、そんな幻覚を持っている。
「雨宿りをしましょう。どこかに大きな木は……あ、あそこの銀杏の木がよさそうですね」
薪が濡れてしまわないうちに、と銀杏の木に向かって駆ける。近くまで来たところで、そこに先客がいることに気がついた。よく考えれば、ここで会うのは二回目だった。
「ギンナンさん」
「おやおや、ルテアさん。ここでよく会いますね」
「今日もお休みですか?」
「ええ。本を読んでいたのですが……降ってきましたねぇ」
ギンナンさんはため息を吐きながら空を見上げると「隣、どーぞ」と、銀杏の木の根本を軽く叩いた。お言葉に甘えて、リオルと一緒にギンナンさんの隣へと座る。背負い籠を降ろしながら一息ついた頃には、雨は本格的に降り出してきた。
「家のお手伝いですか」
「はい」
「そういえば、うちのコウヨウがルテアさんのお宅に呼ばれたと言っていましたよ」
「えっ? そう、なのですか?」
「ええ。なんでも売りたいものがあるとか」
「売りたいもの……? 我が家にそんなものなんて……あ、もしかして野菜でしょうか……?」
「そーかもしれませんね」
「なるほど……出てくるときに母が茶器の準備をしていたのはそれで……あ。あの、先日はありがとうございました。ギンナンさんが計らってくださったお陰で、母が少しだけ……優しくなった気がします」
「! そうですか。ルテアさんの自信になればと思ったことでしたが、それ以上の効果を得ることができたのならよかった」
ああ、やっぱり、ギンナンさんはそこまで考えて動いてくださったんだ。
ふと、ギンナンさんの手元に視線を落とす。彼が読んでいた本の表紙には『経済学の入門』と書かれている。わたしにはその中身を理解するどころか、読めない文字もたくさんあるのだろうということを簡単に察することができた。
「難しい本をお読みになるのですね」
「ああ。これでも、いずれイチョウ商会のリーダーになる身ですから、勉強はしておこうと思いましてね」
「! そうだったのですか……?」
「今のリーダー……コウヨウもそう若くはありませんからね。わたしたちは旅をしながら商いを営んでいる商人の集団です。長時間歩くことが難しくなったり、物を運べなくなったら商会を抜けて独立したり、その地に定住を決める人間が多いのです。コウヨウもあと数年ほど、と考えているようで、わたしがリーダーの席を引き継ぐ予定なんですよ」
「そうだったのですね……」
ギンナンさんが次期イチョウ商会のリーダーになるなんて、少し不思議だけれど違和感はない。ギンナンさんは優れた洞察力や観察力をお持ちだし、頭の回転が早く物事の先まで考えて行動する力がある。知識がとても豊富だし、接客も早くて丁寧で……気怠げな表情を隠せていないところは、やっぱり少し問題かもしれないけれど。
以前のやり取りを思い出して小さく笑ってしまうと、ギンナンさんは「どーしました?」と首を傾げた。そこでわたしは、今までずっと謎に思っていたことを聞いてみることに決めた。
「あの……」
「はい?」
「ギンナンさんは……お仕事以外のときもずっと敬語でお話されるのですか?」
「ははは、さすがにそれはありませんよ。イチョウ商会以外の人間はわたしたちにとって全員お客様になりえますからね。どんなときも敬語を崩さなようにしているだけです」
つまり、ギンナンさんはわたしのことも『一人のお客さん』として見てくれている、ということになる。やっぱり、という気持ち以外に、もう一つ別の気持ちが沸き上がってくる。
はじめは、名前を呼んでもらえるだけで嬉しかった。わたしのことを客として見る以前に、ひとりの人間として接してくれていた、それだけで救われたような気持ちになった。
でも、今は……少しだけ、欲張りになってしまっている自分がいる。
「もし、よかったら、あの……わたしの前では普段の話し方をしていただけないでしょうか?」
「え?」
「わ、わたしはこんなに子供ですし、子供相手にかしこまっていただかなくても……それに、あの、お休みのところ気を抜くことができないでしょうし……」
わたしの口は都合のいい言い訳ばかり紡いで、言葉を正当化しようとしている。ただ「ギンナンさんともっと仲良くなりたい」という一言が言えない、子供じみた単純な願いがあるだけなのに。
ギンナンさんは一瞬だけ海碧色の瞳を見開くと……次の瞬間、とても嬉しそうに笑ってくれた。
「では、きみのことをルテアと呼んでも?」
「は、はい! もちろんです」
「おやおや。ルテアも、おれの前では自分が話しやすいようにしてくれたら嬉しいけどな」
「わたしはこの喋り方が落ち着くのですが……」
「そーなのか? じゃあ、そのままでいいよ」
素の一人称は『おれ』で二人称は『きみ』だということ。感動詞を二回続ける癖があること。『そう』や『どう』といった言葉を伸ばす話し方をするということ。
まだ数回しか言葉を交わしていないのに、もうこんなに新しい発見でいっぱいだ。
「せっかくここで会えたんだ。雨が止むまで話でもしようか」
「はい。わたし、ギンナンさんのことをお聞きしたいです。どちらの出身なのか、今までにどんなところを旅してきたのか」
「いいよ。話そう。その代わり、おれにもルテアのことを教えてほしい。好きなものはなにかとか、リオルとはどうやって出会ったとか」
「はい。もちろんです」
「ワンッ!」
降り止まない雨の中に閉じ込められた空間の中でギンナンさんと過ごした時間は、わたしにとってとても幸せなひとときだった。またいつか、このひとときが訪れたら嬉しい。そんなことさえ願ってしまうほどに。
でも、わたしは忘れていたのだ。色づき始めた鶸色の銀杏の葉が完全に金色に染まる頃に、彼はここからいなくなってしまうことを。
2022.03.27