六.乳白色
湿っぽい蒸気が立ち込めている。デンジの腕の中でレインが身じろぐたびにちゃぷんと湯面が揺れる。湯の温度はそう高くはないはずなのに、レインの肌は髪を結い上げて顕になっている項から耳まで真っ赤だった。乳白色の入浴剤を使っているため湯の下まで確認することはできないが、この様子だと全身がオクタンのように赤く茹で上がっていることだろう。
ふ、とデンジは口元を緩める。幼馴染から恋人になり、イッシュから帰国後プロポーズして婚約者という関係にまでなった今でも、レインは初々しい反応をしてくれる。それがいつまでも新鮮で飽きないし、デンジの中の悪戯心と小さな支配欲を駆り立てる。
しかし、今はそのときではない。話したいことがあるのだ。
「レイン」
「な、なぁに?」
小さな耳元で声を低くして囁やけば、細い肩がわかりやすく跳ねる。
「明日から開催される新年ポケモン勝負のことなんだが……」
一瞬だけ言い淀んだあとに、デンジは先の言葉を紡ぐ。
「オレ、ナツメとチームを組んで参加してみたいんだ」
バスルームの中をデンジの声が反響したあと、短い静寂が訪れた。レインはデンジの腕の中でゆっくりと向きを回転し、デンジと向かい合う形を取った。
「理由を聞いてみてもいい?」
「ああ」
レインの反応は穏やかではあったが、僅かに緊張している自分がいることにデンジは気付いていた。
デンジとレインは恋人同士だが、ポケモントレーナーとしての息もぴったりだ。レインは当然のように、新年ポケモン勝負にデンジと出場するつもりでいたかもしれない。それを断り他の女性と出場するということは、レインを悲しませることになるかもしれない。
しかし、デンジには彼なりの、そうしたい理由があった。
「今日さ、レインとナツメもポケモンバトルをしていただろ?」
「ええ。デンジ君とオーバ君が戦った広場で、手合わせをしてもらったわ」
「それをオレも見ていたんだ」
ナツメの戦い方には特別火力があるわけではなかった。派手な攻撃で相手を圧倒するというわけでもなかった。しかし、自らのステータスを上げつつ、まるで先回りするように立ち回り、無駄のない攻撃を放つ。
結局、レインとの勝負は引き分けに終わったようだったが、デンジはナツメが実力者であることを改めて感じ取っていた。
「ナツメの先を読むような戦い方と、何よりもレインとランターンを相手に引けを取らない実力に興味が湧いた。だから、同じチームで戦ってその力を間近で見てみたいと思ったんだ。同じジムリーダーとはいえ、パシオという環境でもない限りカントー地方のジムリーダーとは滅多に組めるものじゃないからな」
これが、デンジの本心の全てだった。
レインはどんな言葉を返してくるだろうか? もし悲しませてしまったら、自分のポケモントレーナーとしての欲求は我慢してレインと組もう。レインと組んだとしても、熱く痺れるバトルができるのは約束されているようなものなのだから。
デンジはそう思っていた。しかし。
「……ふふふ」
「レイン?」
レインは頬を体温以外の熱で染めて、笑ったのだ。
「ううん。なんでもないの。ちょっと嬉しくって」
「嬉しい?」
「ええ。デンジ君が私たちの実力を評価してくれていることも、デンジ君が積極的に色んなバディーズと組んでみたいと思っていることも、すごく嬉しい」
デンジにはレインが言わんとしていることがすぐにわかった。
シンオウ地方にいた頃、手応えのないチャレンジャーたちとのバトルに明け暮れて、ポケモン勝負本来の楽しさを見失っていたときがデンジにはあった。そんなデンジが、パシオで生き生きとポケモンバトルをしている姿を見ることができるのは、レインにとってこの上ない幸せだったのだ。
例え、チームを組む相手が自分じゃなくても。いや、自分やオーバといったデンジにとって『輪』の中にいる人間以外だからこそ、レインはなおさら嬉しく感じているのかもしれない。
「……そうだな。パシオには、ポケモン勝負の楽しさを思い出させてくれるバディーズがたくさんいるから」
「ええ。そうね」
「じゃあ、いいのか?」
「もちろん。ナツメさんと一緒に勝ち進んで。私も頑張るから」
「レインはもう誰と組むか決めているのか?」
「ええ。私はユイちゃんと」
弾むような声でレインは答えた。ユイとのバトルを心から楽しみにしているということが伝わってくる声色だった。どうやら、デンジが懸念していたレインのチームメイト探しは杞憂だったようだ。
レインはもう、トレーナーになる前のようにデンジに守られてばかりの存在ではない。自分の意志で行動して、目標を持って、高みを目指す、デンジと同じポケモントレーナーなのだ。
少しだけ寂しく感じてしまうのは我儘なのだろうな、とデンジは苦笑した。
「デンジ君?」
「……自分で言っておいてなんだが……いや、格好悪いから言うのはやめておく」
「えっ? ……そこまで言われたら、気になるわ」
雨を塗り固めたような薄氷色の瞳にじっと見つめられる。何でも見透かしてしまうような無垢な視線を前にしては、隠し事はできない。
観念したデンジは、レインをゆるく抱きしめていた腕に力を込めた。
「少しくらい妬いてくれたら嬉しかったのにな、と思ったんだ」
「!」
「な? 自分勝手で格好悪いだろ?」
「デンジ君……ふふ、私はもう誰にも嫉妬したり劣等感を持ったりしないわ。だって、デンジ君が私のことを誰よりも愛してくれているって知っているから」
「! ……これはオレの負けだな」
「ふふふ……んっ」
愛おしさより先行して唇を奪う。言葉よりも態度で愛情を示す。それによって、レインがキャパオーバーすることになったとしても、想いは止められない。
レインの言う通りだ。
――こんなにも、レインのことを愛している。
相手を包み込みながらも、押し潰そうともしてしまうほどの強いデンジの愛情を、力を入れたら折れてしまいそうな華奢な体全部でレインは受け止める。一方的な口付けに、必死になってついてこようとするいじらしい姿に、デンジの中で愛おしさと支配欲が募る。
「形勢逆転」
「っ、デンジ君……!」
「まさか姫初めが風呂になるなんてな」
「ひめはじめ?」
聞き慣れない単語にレインがこてんと首を傾げる。その潤んで蕩けてしまいそうな瞳を見つめて、はっきりと告げる。
「今ここで、レインを抱くって言ってる」
許可を問うのではなく、断言。逃さない。待てない。今すぐに全てを奪いたい。
呆れるくらい強欲で、身勝手な欲望だ。
しかし、すでにデンジという色に全て染まっているレインの答えは決まっていた。
「……はい」
強欲なのはレインも同じだった。
逃さないで欲しい。全てを奪って、めちゃくちゃにして、でも優しく、激しく、愛して欲しい。
この体も心も、全ては彼のためにあるのだから。
2022.01.06
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