まるでレモンみたいな


 デンジ君の顔を正面からまじまじと見られる時間は、実をいうと案外少ない。
 ほとんどの場合、私の定位置はデンジ君の左隣で、私は下から見上げるデンジ君の左側の横顔を見ることが多いのだ。並んで街を歩くときも、ソファーに座ってくつろぐときも、一緒にお料理をするときも、ぴったりくっついて眠るときも、私はデンジ君の左隣に収まっている。
 デンジ君の正面に立つとき……例えばバトルをするときは顔を見るどころではなく勝負に集中するし、キスをするときは……これもまた顔を見つめるほどの余裕はないし。
 だから、今のような時間は特別なのだ。
 話題になっているカフェのテラス席に通された私とデンジ君は、テーブルを挟んで向かい合って座っている。メニューに視線を落とすデンジ君の金色の睫毛が、光を浴びて透き通って見えるところまで、正面からじっくりと見放題なのだからなんだか得した気分だ。
 デンジ君はメニューに視線を向けたまま、腕を伸ばしてグラスを取ると、水をひとくち喉の奥へと流し込んだ。すると、睫毛と同じ金色の眉がぎゅっと寄せられ、眉間にうっすらとシワが刻まれた。

「どうしたの? デンジ君」
「これ、あれだ。レモン水」
「え? ああ、そうね。デンジ君はレモン水が苦手だったの?」
「出されたら飲むけど、普通の水が一番だな」

 不足そうにグラスを置き、テーブルの隅に避けている姿がなんだか子供のように見えてしまって思わず小さく笑ってしまった。デンジ君は拗ねたように唇を尖らせたあと、イタズラを思い付いた子供のようにニヤリと笑った。

「オレのことはいいから、何にするか決まったのか?」
「え!?」
「ずっとオレの顔を見ていて決まってないんだろ?」
「なななな、なんで……!?」
「バレバレだ。レインは本当にわかりやすいな。オレの顔ならいつでも、いくらでも見せてやるのに」

 デンジ君の視線から逃れられるわけでもないのに、私はメニュー表で顔を覆い隠して恥ずかしさを堪えた。バレていないと思っていたのに。こっそりと見惚れているだけでよかったのに。デンジ君は私の何枚も上手みたいだ。

「で、何にするんだ?」
「えっと……パスタかオムライスにするかで迷っているの。どっちも美味しそうで」
「じゃあ、レインがパスタでオレがオムライスにするか? 半分こしよう」
「いいの?」
「ああ」
「嬉しい! ありがとう、デンジ君。でも、デンジ君が食べたいものがあったら我慢しないで?」
「オレは別になんでもいいんだ。レインの手料理以上に美味いものなんてないんだし」
「っっ……! う、嬉しいけれどそんなに追い討ちをかけないで……!」
「なんのことやら」

 デンジ君はしれっとした顔でグラスに口を付けた。私がオーバーヒートしてしまいそうになっていることも全部わかっているくせに、デンジ君はイジワルだ。でも、そんなところも好きだと思ってしまうし、デンジ君からもらう言葉はどんなものでも全部嬉しい。
 それにしても、顔が熱い。沸騰してしまいそう。
 私がメニュー表を使って風を送っていると、デンジ君がグラスを差し出してくれた。それを一気に飲み干すと、仄かにレモンの風味がする冷えた水が喉の奥をかけ降りていって、からだの内側をスッと冷やしていった。

「落ち着いたか?」
「ええ。ありがとう」
「ほら、ここ。口の端が少し濡れてる」
「っ……!」

 デンジ君は軽く身を乗り出して、私の唇へと手を伸ばした。少しだけ固い親指の腹が唇の輪郭を優しく撫でて、離れていく。
 もしかしたら、デンジ君はこれもわざとやっているのかもしれない。そんな風に触れられて、私の頬が熱くならないわけがないのに。

「そういえば、ファーストキスはレモン味ってよく言うよな」
「そう、なの?」
「なんでも、甘酸っぱいとかなんとかで。まあ、ただの例えだけどな」
「あ、そういうことなのね」
「実際、オレたちのファーストキスはしょっぱかったもんな」
「あれは私が泣いちゃってたから……」

 初めてキスしたときのことを思い出させるなんて、デンジ君はまた私をオーバーヒートさせるつもりなのかもしれない。
 もうその手にはのらないと警戒していると、またデンジ君が身を乗り出してきた。その瞬間、メニュー表が作る影が私たちを覆い隠して唇に柔らかいものが触れる。指とは比べ物にならない柔らかさと、仄かに感じるレモンの味。
 瞬きする暇もないほど一瞬のキスだった。でも、デンジ君は「してやったり」といった様子で笑って、メニュー表をテーブルの上に戻した。

「レモンの味、した?」

 カラン。溶けた氷が透明なレモン水を揺らした。私の口の中には、忘れられない甘酸っぱい味がいつまでも残っていた。



2022.08.01



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