あなたに染まる恋色


 ぬるま湯で顔を洗って、化粧水と乳液で肌を整えて、ベースメイクをして、その上から色をのせていく。といっても、コンテストに出るときみたいにしっかりメイクをすることが苦手な私は、整える程度にマスカラを塗って、ポイントにリップとチークを使うくらいだ。
 まつげを軽く持ち上げてマスカラを塗り終え、チークが入ったコンパクトに手を伸ばそうとしたとき、脱衣所の鏡越しにデンジ君と視線が合った。

「……デンジ君、あの」
「ん?」
「あまり見られていると、ちょっと緊張しちゃうわ」
「オレのことは気にしなくていいから」

 そう言って、デンジ君は入り口にもたれ掛かったまま私を見ている。気にしなくてもいいと言われたら余計に気になるし、メイクはあまり上手ではない自覚があるから気恥ずかしさが湧いてくる。
 メイクをするのも、自分に似合うお洋服やアクセサリーを探すのも、デンジ君にもっと可愛いと思ってもらいたいから、もっと勉強したいんだけどな。

「『マスカラを落とすような男じゃなくて、リップを落とすような男と付き合え』」
「え?」
「って、どこか他の地方の女優の名言なんだってさ。ジムリーダー会議の前にスズナたちが話してた」
「そんな言葉があるのね。どういう意味かしら」
「『自分のことを泣かせる男よりも、たくさんキスをして愛してくれる男を愛しなさい』。確か、そういう意味だった気がするな」
「なるほど……ふふっ。じゃあ、私はその言葉通りの恋をしているのね」

 デンジ君は絶対に私を悲しませるようなことをしない。結婚式のときのように、嬉しくって泣いたとき以外にほとんど涙を流さない。キスは……一日に数え切れないほどくれるけれど。
 デンジ君はとぼけた顔で首を傾げた。

「そうか? 夜はあんなに泣かせてるのに?」
「! デンジ君……!」

 そのときは、また、話が、別、だ。
 デンジ君に深く愛される夜は、悲しさとも嬉しさとも幸せとも違う生理的な涙が零れてしまうときもあるから。
 頬に熱が集まっていく。そんな私を見て、デンジ君は笑う。

「ほっぺ、塗ってないのに赤くなった。チークはいらないな」
「……いじわる」

 デンジ君と生きていくなら、一生チークはいらないかもしれない。いつも貴方に恋して、私の頬は色付くから。

「最後のリップはオレに塗らせてくれよ」
「じゃあ、お願いします。デンジ君のほうが手先が器用だし、塗るのも上手そうだわ」

 私はデンジ君にリップを手渡すと、目を閉じた。唇をデンジ君のほうに突き出すように軽く顔を上げる。三十秒ほどそうしていたけれど、唇に何かが触れる気配はまったくない。
 不思議に思って瞼を持ち上げると、片手で口元を覆い隠しているデンジ君と目が合った。手で覆い隠しきれていない頬は、私と同じように熱が集まっている。

「デンジ君? どうしたの?」
「や……キス待ち顔みたいで可愛くて見惚れてた」
「! あ、えっと」
「よく考えたら、リップを塗ったらしばらくはキスできないな」
「……じゃあ、あの……今のうちにキス、する?」

 自分でも頑張って言った、と思う。デンジ君のことを大好きだということや、素敵だと思ったことを口にするのは、息をするように自然にできる。反対に、それらを行動で示すのが恥ずかしくて得意ではない私は、常に受け身の状態だ。
 でも、待っているばかりではよくないということはわかるから。たまには、自分からアクションを起こすのだ。すると、デンジ君は一瞬だけ驚いたあとに、本当に嬉しそうに笑ってくれる。
 触れるだけのキスのあとに、額をくっつけて吐息がかかる距離でクスクスと笑い合う。

「塗ったあとも、もし乱れることがあったらまたオレが塗り直してやるから」
「ふふ。ええ、お願いします」

 一緒にいてもマスカラが落ちることはほとんどなくて、リップは乱されることが多いけれど、一緒にいるとチークがいらないくらい私を染めてくれる人。デンジ君がいるだけで、私の世界と私自身は貴方の色に染まっていく。



2022.02.01



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