Another sun

 海の中のような空間を漂っている意識が、ゆらり、ゆらりと、浮いては沈む。恐怖は感じない。むしろ、揺りかごに揺られているような心地よさに身を委ねる。

(……きて……おきて……)

 これは誰の声だろう。雨みたいに澄んでいて、優しい声だ。この声は、もしかして。

(ママ……?)

 海面から勢いよく顔を出したように、私の意識は覚醒した。瞼を開けたそこには、見慣れない白い天井があった。そして、私を見下ろしていたのはーー

「よかった。目が覚めたみたいね」

 ーーアイスブルーの長い髪と、同じ色の瞳を持った女の人。

「ママ……」

 私は気が抜けたように笑ってしまった。ママだ。ママが助けてくれたんだ。テンガン山で何が起こったのかわからないけれど、ママがいるなら大丈夫という無条件の安心感がある。
 でも、ママは少しだけ戸惑うように笑って首を傾げた。

「確かに、私と貴方はとてもよく似ているみたいだけれど、私は貴方のママじゃないわ。私は……子供はもちろんいないし、結婚だってしていないし、恋人すらいないもの」
「え?」

 ……どういう、こと? だって、目の前にいるのは間違いなく私のママだ。十三年間私のことを見守り、育てて、愛してくれているママだ。私がママを間違えるはずがない。なのに、どうしてそういうことを言うの?
 そのとき、ベッドを囲っている白いカーテンが開いて、男の人が現れた。太陽のように眩しい金の髪に、海のようなコバルトブルーの瞳を持ったーー私の、パパ。

「女の子のほうは起きたのか?」
「パパ!」
「パパ……? オレのことを言っているのか?」
「……貴方も違うの?」

 パパも、ママと同じことを言う。……どうしよう、泣いて、しまい、そう。
 黙り込んでしまった私を見て『パパ』と『ママ』は困ったように視線を合わせた。私のことをからかっているという様子はないし、そんなからかいかたを二人は絶対にしない。
 本当に、私のパパとママじゃ、ないの?

「混乱しているようだから教えよう。きみたちはナギサの海で溺れていたんだ。それをオレとレイン……彼女が助けて病院に運んだんだ」
「きみたち……? っ、ライト!」
「この子のことか?」
「ライト……!」
「まだ目が覚めていないけど、怪我はないそうよ」
「よかった……」

 『パパ』は隣のベッドのカーテンを開けた。すると、そこには確かにライトが眠っていた。……もっとも、『パパ』と『ママ』みたいに「オレには姉さんなんていない」と言われる恐れもあるのだけど。でも、一先ず安心だ。

「この子のことがとても大切なのね」
「たった一人の弟だから」
「弟……」

 私とライトが姉弟ということに『ママ』は少し驚いているようだった。きっと、似ていないと思っているに違いないし、それは私たちも自覚していることだ。ライトはパパに、私はママに瓜二つだけれど、ライトと私が似ているかと言われたら首を横に振るしかない。

「きみの名前は?」

 『パパ』は私にそう問いかけた。……この二人に自己紹介することに、違和感しか感じないけれど。

「私の名前は……リッカです」
「リッカちゃん。素敵な名前ね。六花……雪の華の名前と同じ」
「私のパパとママがつけてくれたんです。私が生まれた日に降っていた、季節外れの雪がとっても綺麗だったからって。もっとも、その雪はこの子が降らせたものだったみたいなんですけど」
「それは……ユキカブリが入っているわね」

 私はユキカブリが入ったモンスターボールを両手に持って、目を閉じた。

 ーーまだ暑さが残る秋の入口に、ナギサシティの病院で私は産まれた。産まれた日の晴れた空からキラキラ舞い落ちる雪の結晶が、まるで空からの贈り物のように思えて、パパとママは私に雪の結晶と同じ名前を……リッカと名付けたらしい。
 季節外れの雪の正体は、このユキカブリだった。雪山で暮らしていたこの子は「海を見てみたい」からと言って、野生のひこうポケモンに頼んでナギサシティを訪れたらしい。ユキカブリの特性ゆきふらしが発動して、雪が降ったタイミングに私が産まれた。そして数年後、私たちは雪山で巡り逢ったのだ。
 このときほど、私のママが波導を使えることに感謝したことはなかった。ユキカブリの言葉を聞いて、私が産まれた日の雪の正体がこの子だとわかったのだから。あのときはユキカブリもビックリしていたっけ。まさか、自分がナギサシティを訪れた日に産まれた人間のポケモンになるなんて、思わなかっただろうから。

 雪の名前を持つ私の、イーブイがグレイシアに進化して、さらには名前の由来にもなったユキカブリに巡り逢い、こおりタイプのポケモンと共に生きるようになったなんて、運命にも似た必然性を感じる。それは、パパとママの間に産まれてきたのと同じくらいの幸福だ。

「混乱しているみたいだが、記憶喪失ではないようだな」
「え?」
「いや、こっちの話だ。デジャブというか、以前にも似たようなことがあったからな」

 私の話を聞いた『パパ』は、『ママ』と視線を合わせて意味ありげに笑った。『ママ』もふふっと笑うと、優しい眼差しで私に話しかける。

「貴方はどこか他の街の子かしら? ナギサシティでは見かけないし」
「そんなこと! 私はナギサシティに生まれて、ナギサシティで育ちました!」
「しかし、こんなにもオレたちに似ている子供がいるとなると、噂になっていてもおかしくないが」

 さっき『パパ』はナギサの海で溺れていたと言っていたけれど、やっぱりここはナギサシティらしい。間違いなく私が生まれ育った、太陽に照らされた街だ。
 それなのに、どうして。

「自己紹介がまだだったわね。私はレイン。この病院に隣接している孤児院で働いているの」
「オレはデンジ。知っていると思うが、ここナギサシティのジムリーダーだ」
「レイン……デンジ……」

 ほら、やっぱり、『ママ』と『パパ』は、私のママとパパと同じ名前だ。『パパ』はジムリーダーだと言うし、『ママ』は……あれ? 孤児院で働いている……? 
 私のママが孤児院で働いていたのは、ノモセジムで働くようになるよりずっと昔のことだったはず。少なくとも、私が産まれたときにはもう、ママはノモセジムのサブジムリーダーという役職に就いていた。
 何かが、おかしい。それに……よく見たら目の前にいる『パパ』と『ママ』は私のパパとママよりも若い気がする。スズナさんよりも若い……二十代前後くらいのような……?

「リッカちゃん。貴方が目覚める前のことを思い出せるかしら?」
「……」

 テンガン山。あそこで、宙に現れた巨大な穴のようなものに飲み込まれてから……何かが、おかしい。

「私は……テンガン山でライトたちと一緒にポケモンバトルの修行をしていて……やりの柱に辿り着いたとき、宙に現れた大きな穴のようなものに飲み込まれて……目覚めたらここにいました」

 もしかしたら、本当に、目の前にいる『パパ』と『ママ』は私のパパとママではないし、この『ナギサシティ』も私が生まれ育ったナギサシティとは違うとしたら……?

「ここが、私が知っているナギサシティじゃなくて、パパとママと同じ名前の貴方たちが私のパパとママじゃないなら、私は私が知る別世界のナギサシティからここに来たとしか考えられません。……信じられないかもしれないけど」
「信じるわ」
「え……?」
「きみが嘘を付いていないことくらい、オレもレインもわかっているさ」

 『パパ』と『ママ』ーーううん、デンジさんとレインさんは躊躇う素振りを見せずに頷いた。ついさっき出逢ったばかりの、しかもなんの根拠もないことを並べ立てる子供の言葉を、無条件に信じてくれるなんて。パパとママはもともと子供に優しいところがあるけれど、ここまでの信頼を見せてくれるのはきっとーー相手が私だからだと、思いたい。理屈では考えられない繋がりを感じているのだと、信じたい。だって、本当のパパとママじゃないとしても、同じ姿と同じ名前を持った目の前の二人は、私にとって特別な人たちだから。

「それに、きみがさっき話した可能性は十分考えられる」
「どういうことですか?」
「先日、この地方にいた悪の組織ーーギンガ団が伝説のポケモンを使って世界を創り変えようとする事件があった」
「!」

 ギンガ団のことは私も知っている。新しいエネルギーを開発するために日夜研究を重ねている企業だ。そういえば、私が産まれるよりも前に、一部の団員が大きな事件を起こしたと言われているけれど、もしかしたら何か関係があるのかもしれない。

「そのとき、利用されたのがディアルガとパルキアという伝説のポケモンだ」
「それぞれ、時間と空間を司るポケモンだそうよ」
「時間が流れ、空間が広がることで世界が生まれる。その二体を利用すれば、世界を創り変えることも可能というわけだ。まあ、失敗に終わったけどな」
「そう、なんですか……」
「シンオウ地方は日常を取り戻したが、その影響で時空の流れが不安定になっている恐れも考えられる」
「じゃあ、私とライトは不安定な時空に巻き込まれて、こことは同じだけど違う別世界から来た……ということ?」
「もしくは、この世界の未来から来た、か」

 私にしか聞こえないくらいの声の大きさで、デンジさんはそう付け加えた。
 そっか。『同じだけど違う世界から来た』他に『この世界の未来から来た』……つまり、私とライトが過去に飛んだということも考えられるんだ。
 でも、仮に過去に飛んだのだとしたら、目の前にいるデンジさんとレインさんは私のパパとママの若かりし頃の姿ということになる。そして、レインさんが最初に言っていたことが本当なら、二人は結婚はもちろんのこと恋人同士ですらないという。
 ……あれ? それって、ちょっと、私たち的にはマズイんじゃないかな……?

「リッカちゃん」
「は、はい!」
「元の世界に帰る方法を探しましょう。貴方のパパとママが、貴方の世界に住んでいる私とデンジ君なら、きっと貴方たちのことをすごく心配しているわ」
「レインさん……!」
「孤児院に空いている部屋があるから、使えるか私の母さんに聞いてみるわね。そこで一緒に過ごしながら帰る方法を探しましょう」
「ありがとうございます」

 ここが違う世界だとしても、過去の世界だとしても、目の前にいるレインさんは私が知っているママと同じだ。雨が地面に降り注いで恵みを与えてくれるように、自分以外への慈愛と献身を惜しまない人。傍にいると、不思議と安心してしまう。「絶対に大丈夫」だという気持ちが生まれてくる。

「でも、不思議ね。ね、デンジ君。私たちは幼馴染なのに、別の世界の私たちは結婚していてこんなに可愛い子供がいるなんて。ふふっ」
「……そうだな」

 ……? レインさんは本当に不思議そうに、屈託なく笑っている。でも、デンジさんは……なんだか、複雑そうだ。
 あれ? もしかして……。

「ん……」
「! ライト!」
「姉さん……? あれ、オレたちどうなっ……!? 父さんと母さん!? いや、でも若いような……別人……?」

 目を覚ましたライトは、デンジさんとレインさんの姿を見るなり寝ぼけ眼を覚醒させた。私がようやく受け入れられたところにすぐ気が付くなんて、さすがはパパに似て賢い。
 さあ。ライトに現状を説明をして、私も考えを整理しよう。この世界のこと。デンジさんとレインさんのこと。そして、この二人の関係も。



2021.12.18