純水より透明なひとでした


 カーテン越しに朝の陽ざしを感じ取り、ゆっくりと体を起こす。歯を磨き、顔を洗い、長い髪を丁寧に梳かし、簡単に化粧を済ませる。そして、女性らしい曲線を帯びた体に沿うなだらかなラインのワンピースを纏う。これで朝の身支度は終わりだが、時間が余れば食事の代わりに水を飲みながら新聞に目を通す。
 出勤の時間になると、ジャケットを羽織って鏡の前に立つ。頭の先から爪先まで、念入りに姿を確認する。何も間違いはないことを確認したら、脳裏に焼き付いている笑顔を思い浮かべて同じように笑ってみる。

「わたしは“シャンティーナ”……ええ、大丈夫そうですね」

 そして、シャンティーナはアパルトマンを出て、朝の空気に包まれたフォンテーヌ廷を歩いて職場へと向かう。水神フリーナが最上部に住居を構えるパレ・メルモニアの扉を開き、そのまま進むと、広いフロアの両側に職員が座るデスクがずらりと並んでいる場所に出る。ここが、シャンティーナが配属された部署。共律庭の共律官。それがシャンティーナに与えられた役割だった。

「おはようございます!」

 明るい挨拶は新人の基本である。それから素直に物事を聞き入れ、学び取ろうとする姿勢を持っていれば、それだけで新人としては満点に近い。与えられた仕事だけでなく、自ら仕事を探しに行くシャンティーナの姿勢は先輩職員から評価され、働き出して一ヶ月もすれば彼女の元には次第に様々な仕事が集まるようになっていた。

「シャンティーナ。この資料を読み返しやすくまとめなおしてくれるかい?」
「かしこまりました!」

 文書管理と事務処理は共律官の基本業務である。無造作にファイリングされていた書類を種類別、日付別に分けて、わかりやすく見出しをつける。保管期間を過ぎた書類は適切に処分すれば、棚を圧迫することもない。

「しまった。来客用の紅茶を切らしてしまっていたな……」
「わたしが買ってきましょう」

 突発的なトラブルにも進んで対応する。このような場合はたいてい手持ちのモラから購入するが、あとから適切な手順をもって経理部門に申請することも忘れない。

「なにかお手伝いできることはありませんか?」
「おっ! 今年の新人は意欲的で結構! じゃあ、会議室の清掃をお願いするよ。このあと使うんだ」
「はい!」

 職場が乱れていてはいい仕事ができない。清掃という誰もが嫌がる仕事ですら、シャンティーナは文句ひとつ口にすることなく対応する。
 そうしているうちに、午前十二時を告げる鐘が鳴った。共律庭はフォンテーヌの役所としてフロアを解放しているため、国民がひっきりなしにやってくる。そのため、休憩は交代制であることが多い。シャンティーナはまだ来庁者の対応を任される立場にないため、休憩時間は就業規則通りだった。

「休憩の時間ですね」
「シャンティーナ。一緒にランチでも行かない?」
「あっ、ごめんなさい。少々やりたいことがありまして」
「そう? 食事をとっているところを見たことがないけれど、休憩時間くらいちゃんと休むのよ?」
「はーい!」

 同僚の誘いをやんわりと断ったシャンティーナはある場所へと向かう。共律庭のフロアよりもさらに奥にある、一般人には解放していない蔵書フロアだ。そこにはフォンテーヌの歴史が記されたものから、裁判制度ができてから今までの裁判の記録など、様々な資料が保管されている。

「さて、と」

 その一冊を本棚から抜き取ったシャンティーナの視線が文字をなぞる。外から聞こえてくる喧騒を遮断して、一ページでも多くの文字を追いかけようと必死だった。

「休んでなんかいられません。休憩時間は唯一、パレ・メルモニア内で自由に過ごせる時間なのですから」

 そのページの裁判記録に記されている、有罪判決を受けた罪人の名前をなぞり、言葉を落とす。

「わたしは……正義とは何か、それが知りたいだけなのです」
「シャンティーナ様」

 突然名前を呼ばれたシャンティーナの肩が震えた。顔を上げ、視線を横へと落とす。水浅葱色の身体をしたメリュジーヌがシャンティーナを見上げて不思議そうに首を傾げている。確かパレ・メルモニアで働いているメリュジーヌのひとりだったが、どうも名前が思い出せない。あとから確認するとして、とりあえず今はこの場を乗り切ろうとシャンティーナは資料を閉じて笑顔を作った。

「まぁまぁ! 共律庭に入ったばかりのわたしに対して、そんな呼び方をなさらないでくださいな。みなさんのようにシャンティーナとお気軽に……」
「いいえ。あなたは人の姿をしていますが、私たちよりも遥かに長い時を生きていらっしゃいますよね。年長者は敬わないといけません」

 ぴくり、とシャンティーナは眉を持ち上げた。確かメリュジーヌという種族は視覚をはじめとした特殊な感覚を持ち合わせており、それもあってマレショーセ・ファントムの人員にはメリュジーヌが増えてきたと聞く。
 見抜かれているのならば仕方はない。早かれ遅かれ、自分が人間外の生き物であることはいずれわかることだ。
 しかし、目の前にいるメリュジーヌは特にそれ以上を突き詰めようとはしなかった。あくまでも会話の一環。そこに何の含みも悪意も潜めていないようだ。
 引き続き笑顔を浮かべながら、シャンティーナは首を傾げる。

「何かわたしにご用でしょうか? お仕事なら何なりとお申し付けください!」
「いえ。今は休憩時間でしょう? 仕事は後回しにして、きちんと食事と休息をとってください」
「……ふふ。お気遣いをありがとうございます。ですが水分はとりましたし、こうしていることもわたしにとっては休息になるのですよ〜」
「でも……あっ」

 話しているうちに、午後の業務開始の十分前を告げる鐘が鳴り響いた。シャンティーナは資料を本棚に戻すと、踏み台から降りてフロアの出入り口へと向かった。

「お仕事に戻らないといけませんね。では、失礼します!」

 業務時間内は真面目に働いて周りからの信頼を得る。そして、休み時間や空き時間になると今までの裁判や事件の記録を振り返る。その中には目を背けたくなるような内容もあった。納得がいかない有罪判決の記録もあった。

 そうしているうちに、どんどん月日は過ぎていった。それでも、正義とは何なのか。シャンティーナが答えに辿り着くことはなかった。

「やっぱり、わたしにはあの子が持っていた正義が何かわかりません……特巡隊に入ることができたらわかったのでしょうか。しかし、適性試験ではいい成績を出せませんでしたし……」

 もともとシャンティーナは特巡隊に入ることを希望していたが、筆記試験はともかく実技試験でまともに剣を振ることができなかったため、合格はしたものの共律庭に配属されたという経緯があった。それでも、自分にできることからやっていこうと、こうして時間を見つけては資料を読み漁っていた。しかし、こうも進展がないとは。
 焦りと虚無感を息に交じらせて吐き出す。もう終業時間を過ぎてからだいぶ経つ。残業をしている職員もそろそろ帰り始める時間だろう。最後のひとりになる前にさっさと帰っておかないと、また誰かからお節介を焼かれてしまう。
 シャンティーナは資料を閉じて本棚の下のほうへ戻し、再び立ち上がった。その瞬間、視界が大きく揺れた。

(これは、まずい、ですね)

 まるで頭の中をかき混ぜられているような感覚だ。立ち眩みなどという生易しいものではない。記憶を司る神経の中枢を真似たところが、少しずつ綻んでいく感覚がする。
 とにかく、この場を離れなければ。
 シャンティーナは一歩、一歩、震える足を叱咤しながら共律庭のフロアを進んだ。早く、誰が来るかもわからないこの場から離れなければ。早く、早く。
 しかし、シャンティーナの力はとっくに限界を超えていた。二本の腕は小さな鰭へと変わり、二本の足は人魚の尾のようにひとつになる。長い髪はなくなり二本の小さな触角が代わりに生える。目も耳も口もない顔は真珠のような球体になり、そこは泥を混ぜた水面のように濁っていた。

(やはり、ダメなのでしょうか。うつくしい水がなければわたしは人の姿を模ることもできない。このまま体も記憶も……消えて……)

 共律庭のフロアに身を横たえたシャンティーナは、己の無力さを嘆きながら命の終わりを迎えようとしていた。これも二度目の感覚になる。一度目のとき助けてくれたあの子は、もういない。もうきっと、二度目の奇跡が訪れることはない。
 しかし、諦めて意識を沈めようとしたシャンティーナの聴覚は、フロアを叩く高い音を拾った。コツ、コツ、コツ。それはシャンティーナの近くまで来ると止まった。
 気力を振り絞って視覚を結ぶ。一点の汚れもなく磨かれた靴が見える。そして視界を上げていくと、そこにはいつものように涼しげな顔をした男――ヌヴィレットがいた。

「……ヌヴィレットさま」
「やはり君は、あの純水精霊だったのだな」
「……だからなんだというのです? 今のわたしは“シャンティーナ”。正義とは何か、答えを見つけるためだけにここにいるのです。まだ何も答えが出ていない……あの子が護りたかったものが何かわかっていないのに……ここで……消えるわけには……っ」

 自らの正体が“シャンティーナ”の傍にいた純水精霊だったことも。“シャンティーナ”の姿を模っていたことも。ヌヴィレットは全てお見通しだった。その上でここまで泳がせていたというのなら、悪趣味でしかない。

「っ、触らないで!」

 膝を折り、手を伸ばそうとしたヌヴィレットに対して、シャンティーナは強く言い放った。

「ヌヴィレット……! あの子を有罪にしたあなたを、わたくしは許さない! あの子が死ななければならなかった、あの結末が正義というのなら、わたくしは今のフォンテーヌの正義を認めない……っ」

 ああ、せっかく“シャンティーナ”の姿だけでなく、声も、喋り方も、性格も真似ていたというのに、この憎悪を前にしては全て無駄だった。憎い。あの子を有罪にした目の前にいるこの男のことが憎くて仕方がないのに、立ち向かう術も力も持ち合わせていない自分の不甲斐ないこと。
 死者の姿を真似ている者に対して、冷徹なまでに公平を司る男はいったいどのような判決を下すのだろう。

「姿を消した百年余り、君はどのようにして力を保っていたのだ?」
「……同胞のところを点々としていたの。わたくしにとって最もうつくしいと思う水でなくとも、純水精霊が認めるに値するものであれば力を維持することくらいはできるから」
「そうか。……すまない。少しだけ触れさせてもらう」

 一言。断りを入れてから、否応なしにその手のひらの中へと掬い上げられた。今まで数えきれない有罪判決を下してきたその手は、存外、あたたかかった。
 シャンティーナが何かを言う前に、ヌヴィレットは水元素を集約してグラスを形づくった。そこにシャンティーナをそっと入れると、ぽちゃん、と水を一滴グラスの中へと落とす。

「この水は……」

 今まで触れてきたどの水よりも澄んでいて清らかでありながら、強い水元素力が凝縮されていた。ほんの一滴だけでもこれほどまでに力が漲ってくるのだから、これを雨のように降らせることができたらどうなるのだろうかと、悍ましささえ感じるほどの圧倒的な力。
 始まりの水に限りなく近い、源水の雫。これを生み出せる者は、広いテイワットのどこを探してもひとりしかいない。

「……あなたが水元素の生命体の中でも上位の力を有する存在とは思っていたけれど、まさか……水の元素龍王とは……」

 シャンティーナは初めてヌヴィレットが水の龍王であることを悟った。
 テイワットにおいて、龍王は七神の敵であるとシャンティーナは記憶している。かつて元素龍が持っていた権能を、今の七神が使役しているからだ。当然、前水神により生み出された純水精霊であるシャンティーナも、龍王にとっては憎まれるべき存在のはず。
 いや、それ以前に、龍は人間に対して友好的ではなかったはずだ。ならばどうして、ヌヴィレットは人間の姿で、人間に混ざって生活しているのだろう。
 視界が透き通っていく中で、シャンティーナはヌヴィレットを見上げた。相変わらず、能面を張り付けたような無表情は変わらない。しかし。

「どうしてわたくしを助けたの? わたくしはあなたを憎んでいるのに」
「……わからない」
「はぁ?」
「ただ……彼女ならこうするだろうと思ったのだ」

 彼女と呟いたヌヴィレットの表情に、少しだけ、寂しさが見えた気がした。

「水が必要であればいつでも分け与えよう。君が答えを見つけ、納得するまでここにいると良い。だが君の命はもともと彼女が救ったものだ。もっと自分自身を大事にするといい。彼女の姿を借りているのならなおさらのことだ」

 ヌヴィレットはそう言い残すと、共律庭の隣にある自らの執務室へと戻っていった。重い扉が閉まる音が、薄暗いフロアに響き渡ると、シャンティーナはようやく体の力を抜いた。

(……まるであの子から初めて水をもらったときのようね)

 グラスの縁に体を預け、追憶の海を揺蕩いながら、時間だけが過ぎていく。源水の水を最後まで取り入れると、グラスは自然に元素へと還って消えた。
 シャンティーナは再び人のかたちに戻ると、しげしげと両手を見つめた。

「……すごいですね。あっという間に力が回復してしまいました」

 ちらり、と執務室のほうを見る。扉の隙間からは明かりが漏れており、消える様子はない。人には体を大事にするよう言っておきながら、いつまで、そして何のために、仕事をするつもりなのだろう。
 一言礼を言うべきなのだろうか。迷いに迷って、シャンティーナは何も言わずにパレ・メルモニアをあとにした。今日はもう帰って眠ってしまおう。気にならない程度の小雨が降る中、自然と足が速くなる。
 しかし、途中のカフェテリアであのメリュジーヌを見つけた。純水精霊という種族は個体によって知能に大きな差があり、シャンティーナ自身も物忘れがあったりうっかりしたりする場面も多々あるが、さすがにあの一件で彼女のことは記憶していた。

「こんばんは」

 気がついたときには声をかけてしまっていた。メリュジーヌの大きな瞳がシャンティーナを覗き込む。

「シャンティーナ様。今日はもうお帰りですか?」
「はい。あなたも、ですか?」
「ええ。カフェでケーキとコーヒーを食べて帰ろうと思っているのですが、一緒にいかがですか?」

 本来、純水精霊は食べることを必要としない。ただ、人間の中で生活するのに食べ物を全く食べないのは不自然なため、休憩時間中に水を飲んだり軽食を口にしたりすることはある。誰かと何かを食べるといったことをしたことは、今までない。
 だから、これはあくまでも“シャンティーナ”ならばこう言うだろうと、計算しなおした答えだ。

「……そうですね。ぜひご一緒させてください」

 メリュジーヌと向かい合って、カフェテリアに腰を下ろす。渡されたメニューを読むことはできるが、その意味までわからない。まるで呪文のように長い料理の名前が並んでいる。

「何を召し上がりますか?」
「えっと……よくわからないので、あなたと同じものをお願いします」
「わかりました!」

 しばらく経つと、シャンティーナの目の前に宝石のようなイチゴがのったケーキが運ばれてきた。そして、一緒に運ばれてきたティーカップからは仄かに湯気が立ち、穏やかな香りが漂ってきている。

「どうぞ。ここのケーキとコーヒーは最近のお気に入りなんです」
「では……いただきます」

 フォークを手に取って、ケーキの先端へと刺し入れる。驚くほど柔らかく、ふかふかしていて、吸い込まれるようにフォークが消えていった。そのまま掬い上げるようにフォークを持ち上げて、口の中へと運ぶ。しっとり焼き上げられたスポンジと、口当たりの良いクリーム、そして甘酸っぱいイチゴが口の中で絡み合った。

「……美味しい」

 唇から漏れた感想は“シャンティーナ”ではなく、間違いなくシャンティーナ自身から生まれたものだった。
 こうしてふたりは、同僚よりも少しだけ近い存在になったのだった。



2024.04.22



- ナノ -