まぶしい金色の海を見たの


 フォンテーヌが七大国家として君臨するよりも遥か昔。初代水神エゲリアがその座に就くよりも前のこと。エゲリアが流した涙の一粒から彼女たちは生まれた。何よりも美しく、誰よりも気高いエゲリアが流した純粋な雫から生まれた彼女たちは純水精霊と名付けられ、エゲリアの眷属となった。
 純水精霊たちはエゲリアの元で愛に触れ、彼女に仕えることを誇りに思っていたが、中には他の生き方を望んだ者もいた。それは『人間になりたい』という夢のような願いだった。
 エゲリアは眷属であり我が子ともいえる純水精霊たちの願いにこたえるために、原初の水龍が統べていたとされる原始胎海の力を盗み、純水精霊たちを人間の姿に変えた。この人間が新たなフォンテーヌ人となり、エゲリアとフォンテーヌ人は天理の許可なく人間を創造した禁忌に触れたため、原罪を背負うことになってしまった。
 人間になることを選ばなかった純水精霊たちは、のちに水神の座に就いたエゲリアの手足となり、各国へと散らばった。水脈を通して大陸の生き物と意識を繋げることは、彼女たちなりの愛になる。エゲリアを慕う純水精霊たちは、それぞれの行きついた先で美しい水と出逢い、愛を繋げようとした。
 しかし、それも漆黒の災厄により終わりを迎えた。
 災厄を鎮めるためにカーンルイアへと召集されたエゲリアは、戦いの中で命を落とし、代わりに新しい水神――フォカロルスが生まれた。かつては純水精霊のひとりであった彼女が、神へと昇格したのだった。
 他の純水精霊たちはフォカロルスを祝福するどころか、彼女が神となったことを良しとしなかった。純水精霊たちのほとんどがフォカロルスを認めず、故郷から離れ静かな水を求めて各国へと散らばってしまったのだ。
 純水精霊たちは美しい水がなければ生きていられない。濁水が蔓延るフォンテーヌに残っていても、待っているのは泡沫に溶ける未来だけだ。
 それなのに『彼女』はフォンテーヌから離れなかった。母ともいえるエゲリアが愛した国とこの身体を『彼女』は愛していた。だから、どれだけ苦しくても耐え続けた。鰭が縮み、頭部が濁り、力を失っても、最後までフォンテーヌに居続けたかった。
 それももう、限界だ。今のフォンテーヌに美しい水は、ない。

(……わたくしは、どうすればよかったのでしょう)

 波打ち際に打ち上げられた『彼女』は、海水に身を浸しながら途切れ行く意識を何とか繋ぎ止めていた。今の『彼女』を見ても、きっと誰も純水精霊とは気づかない。死んだ魚か何かが打ち上げられていると見間違われてもおかしくないだろう。
 『彼女』を待っているのは、消失だ。

(このまま消えるのもいいかもしれません。エゲリアさまがいなくなったこの国に、未練は……)

 そこまで紡いだ思考を止める。未練は、ある。フォンテーヌという愛しい国の未来が心配で仕方がない。
 エゲリアが愛したこの国は、今やフォカロルスによって統率されている。だというのに、フォカロルスは神としての力を発揮せず、のらりくらりと過ごしているらしい。聞いた噂によると、遠くから招いた何者かにほとんどの責務を投げているのだという。
 そんな神が、どうやって国と人々を導いていくのだろう。エゲリアが愛した国を、民を、どうやって守っていくのだろう。
 かつては同胞だったフォカロルスに対して憤る気力すら今の『彼女』には残されていなかった。意識を水に溶かしていく。もし目覚めなくても、それは仕方がない。今は少し、休みたい。

(……だれ?)

 ちゃぷり、と浅瀬で水が遊ぶ音が聞こえて、意識が引き戻された。人間だ。ひとりの人間の女性が『彼女』へ近づき、横たわる姿を見下ろしている。
 金色の長い髪は夕方の海のように煌めき、竜胆色の瞳には憂いと慈しみが共存している。どこか幼さが残る甘い顔立ちをしているが、整った眉と引き締まった口元からは意志の強さを感じられた。成人していると思わしき身体は特巡隊の制服に包まれており、騎士然としている女性の印象をいっそう引き立てていた。

「……なに? わたくしのことを嗤いに来たの?」
「ひゃぁ!」

 人間の女性はその場から一歩飛び退いた。毅然としていた表情は緩み、零れ落ちたのは情けない悲鳴だったものだから、初見の印象ががらりと変わってしまった。
 眉を八の字に下げながら距離を詰めてくる人間の女性を『彼女』は冷静に見上げた。

「ご、ごめんなさい。まさか喋れるとは思わなかったものですから……あの、大丈夫ですか? わたしになにかできることはありますか?」
「……必要ないわ。どうせじきに喋れなくなるもの。だって、ここには美しい水がないから」

 人間の女性がはっと息を飲んだ気配が伝わってきた。『彼女』がこのまま泡沫となる未来を――死を覚悟しているのだと、理解してしまったから。
 次の瞬間『彼女』の視界は大きく揺れた。

「っ、ちょっと、なにをするの!?」

 人間の女性は『彼女』の身体を浅瀬から掬い上げると、脇目も振らずに走り出した。景色がどんどん流れていく。まるで弾丸のような速さだった。どこか気の抜けたように見えても、特巡隊の制服が示す通り運動神経は良いようである。
 そんなどうでもいいことをぼんやりと頭に浮かべながら『彼女』は抵抗せずされるがままになっていた。死を覚悟していた身なのだから、どこへ連れていかれようと、何をされようと、どうだっていい。

「えっと、お水、綺麗なお水……!」

 フォンテーヌ廷の象徴ともいえる建物――パレ・メルモニアの一室に駆け込んだ人間の女性は、水差しに入っている水をグラスへと注ぐと『彼女』の身体をその中へと沈めた。人間が飲むことができる水というだけで、綺麗なものなのだと思い込んでいるのだとしたら、能天気もいいところだ。

(馬鹿な人間。こんなことをしても何にも……)

 何にもならないと、本気でそう思っていた。それなのに『彼女』の濁っていた思考は少しずつクリアになっていき、身体が軽くなっていく。息苦しさが薄れていく代わりに、先ほどよりもはっきりと視界を結ぶことができた。
 この人間は、どうして泣きそうな顔で笑っているのだろう。

「苦しく、ない……?」
「本当ですか? よかったぁ……っ」

 竜胆色の瞳から溢れた透明な雫が人間の女性の輪郭を伝い、グラスの中へと落ちた。水に溶けた涙から伝わってくるこの感情は、心の底から純粋な安堵感。
 どうして、放っておいたら消えてしまう人間ではない命の灯火を助けようと思うのだろう。いや、それ以前に、神の眼差しさえも降りていない人間がこれほどまでに清い水を用意できるとは。

「あなたは一体……?」
「申し遅れました。わたしはシャンティーナと申します。特巡隊に所属してフォンテーヌを守っている、ただの人間です」

 自らをシャンティーナと名乗った人間の女性は、姿勢を正して腰を折りながら、流暢に自己紹介をした。しかし、特巡隊としての雰囲気が見えたのは一瞬だけ。シャンティーナはすぐに表情と口調を緩めると『彼女』が入っているグラスと同じ高さまで目線を落とした。

「小さな純水精霊さん。あなたのお名前を聞かせてくれますか?」
「……人間に教える名前はないわ」
「では、クリオネちゃんと呼ばせていただきますね〜!」
「なっ!? わたくしをクリオネのような小さく弱い生き物と同列にするですって!?」
「気に入りませんでしたか? ひらひらしたおててや、頭の角が似ていますし、なによりとってもかわいいのに〜」

 クリオネ。確かに今の『彼女』はそう呼ばれても仕方がない出で立ちをしている。気高さを象徴する大きな鰭も、人魚のような尾も、王冠のような触角も、弱体化が進んだ今は何もかもが縮んでしまい、手乗りサイズになっているのだから。
 それにしたって、クリオネとはなんだ。『彼女』が憤慨していると部屋の扉が開く気配がして、視線をそちらへと向ける。
 部屋に入ってきたのはひとりの男だった。人間の女性としては高い部類の身長であるシャンティーナを軽く越す長身。腰よりも長く伸びた白銀の髪は、紺青色のリボンで結われている。オーロラのような不思議な色をした瞳の中心にある瞳孔は縦に長く、尖った耳と相まって彼が人間外の種族であることを知らしめている。
 シワのひとつない厳格な衣装に身を包んだ男性は、表情ひとつ変えずにシャンティーナと『彼女』を交互に見比べた。

「ずいぶんと賑やかなようだ」

 出で立ちと表情から想像がつく通りの無機質な声色で、男性は呟いた。普通の人間てあれば背筋を粟立たせてしまうような圧力さえも感じられる。しかし、シャンティーナは臆することなく、むしろどこか親しげに男性へと言葉を返した。

「わわっ、申し訳ありません。ヌヴィレットさま」
「構わん。ふむ。その純水精霊はどうした?」
「はい! たった今お友達になった子です!」
「わたくしは人間なんかと友人になった覚えは……っ」

 つい声を荒らげると、濁水を流し込まれたかのような眩暈に襲われてしまった。弱りきった身体をグラスの縁へと預けると、あたたかい何かが頭部に触れた。普通だったら警戒心とプライドがそれを良しとしないのに、今の『彼女』はシャンティーナの指先から与えられる愛撫を払い除けることなく受け入れた。

「ここは苦しくないのでしょう? どうかゆっくり休んでくださいね。あなたが苦しくなくなるまで」

 優しく、柔らかい声。まるで子守唄のようで、魔法の呪文のようで、酷く安心できる。
 『彼女』は抗うことなく意識を沈めた。もう目覚めないかもしれないという恐怖はない。エゲリアの腕に抱かれているような安心感に身を委ね、清らかな水に揺蕩いながら、ただ眠るだけなのだ。

 これが或る純水精霊とひとりの人間――シャンティーナ、そして水の龍王――ヌヴィレットとの出逢いだった。



2024.03.10



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