00.本当の強さを知る人

急に呼び出されたのが三十分ほど前のこと。デンジ君の家に着き、扉を開けた途端に、彼は私をその腕の中に閉じこめた。
そのまま腰に腕を回されて導かれるように彼の部屋へ連れて行かれ、ソファーに座りさらなる抱擁を受ける。
デンジ君のスキンシップはいつも突然でドキドキする時間すら与えられない。私はいつも抱きしめられたことを認識してから彼の腕の中で頬を赤らめるのだ。
今だってそう。抱きしめられてから数秒経ってからその状況を把握した私は、トクントクンと聞こえる心地の良い音に身を委ねながら彼から与えられる抱擁を甘受している。
しかし、今日はいつもと違うところが一つだけあった。デンジ君から漂ってくる香りだ。
デンジ君はたまに、海の香りに似た爽やかな香水をつけていることがある。その香りを気に入っているのか、デンジ君が香水を変えたことは私の知る範囲では一度もないと思う。私はその香りが大好きだった。その香りに包まれているとまるで海に抱きしめられているような感じがして、とても安心出来た。
でも、今日、デンジ君が纏っているにおいはそれとは全く違うものだった。

「デンジ君……?」
「ん?」
「たばこ、吸ったの?」
「……ああ、悪い。臭かったか?」
「ううん。ただ、どうしたのかなって思って」

デンジ君は腕を緩く解いて、私のことをじっと見つめてきた。デンジ君は普段からたばこを欠かさずに吸うほどヘビースモーカーではない。
ただ、少し落ち込むことがあったり、逆に苛々することがあったり、そういった心が不安定な状態になったときにたばこを吸って気持ちを落ち着かせることがある。
急に呼び出されたということもあって、私は彼が心配になった。

「何かあったの?」
「……やっぱりレインにはバレるか」
「わかるわ。デンジ君のことだもの」
「……」

デンジ君は私の髪を指先で数回梳くと、また私の体をぎゅっと引き寄せた。「あー、癒される」そんな声が上から降ってきたあと、少しの沈黙が私達に訪れた。でもそれは決して居心地の悪いものじゃなかった。
デンジ君が考えと気持ちを整理するのに必要な沈黙だとわかっていたから、私は黙って彼から口を開くのを待った。

「今日」
「ええ」
「朝からチャレンジャーが来たんだ。珍しくオレのところまで来て、オレに切り札のエレキブルを出させた」
「じゃあ、チャレンジャーは強かったのね」
「……どうだろうな」
「え?久しぶりに楽しいバトルが出来たんじゃないの?」
「全然」

嘲るように、デンジ君は今朝戦ったばかりというチャレンジャーの話を続けた。
そのチャレンジャーはなかなかのバトルの腕前の持ち主で、デンジ君と最後の一体同士の対決までバトルを持ち込んだらしい。それでも、デンジ君のパートナーであるエレキブルの壁は厚かった。チャレンジャーのロズレイドは戦闘開始後の数分で戦闘不能になった。このとき、これで終わりだろうとデンジ君は思った。
しかし、チャレンジャーはロズレイドに立てと命じたらしいのだ。デンジ君から見て、ロズレイドは戦えるような状態ではなかった。ロズレイド自身も、もう無理だというような視線でチャレインジャーに訴えかけていたという。その視線を無視して、チャレンジャーはロズレイドに立てと命じたのだ。
ロズレイドもそれに必死に答えようとした。しかし、立ち上がっても足に力が入らず膝から崩れ落ちてしまったらしい。そんなロズレイドにチャレンジャーは罵声を浴びせたと言うから、デンジ君はそこでバトルは中止だと声を張り上げた。
すると今度は、ジムリーダーがバトルを放棄するとはどういうことだと、チャレンジャーが憤った。ロズレイドを見てみろとデンジ君が諭そうとしても聞かずに、なんとチャレンジャーはリーグ本部にこの事態を通報したのだ。
確かに、端から見たらデンジ君がバトルを放棄したと見られるかもしれない。実際、リーグ本部もそうと見なしてデンジ君に厳重注意を下し、バッジをチャレンジャーに与えるように命じたのだ。

「ビーコンバッジ、あげちゃったの?」
「ああ……どうせ、四天王の一人どころかチャンピオンロードすら抜けられないさ。あんなトレーナーは」
「デンジ君……」
「勝てる可能性が一%でもあって粘るのと、勝負がついているのにごり押ししようとするのは違う。ポケモンとトレーナーの絆の強さを見るのもジムリーダーの仕事だろう。限界を超えるまで戦ってくれたのに、それ以上に無理矢理ポケモンを戦わせようとするトレーナーに高みは望めない。ポケモンが可哀想だ」
「ええ。デンジ君はなにも間違ってないと思う。だから……」

今度は私から手を伸ばしてデンジ君の頭を抱きしめた。少し硬い髪の毛をゆるゆると撫でてみる。私の肩に額をすり付けながら、彼は深い息を吐き出した。

「悪いな、レイン。こんな弱いとこばっか見せて、甘えて」
「ううん。変な言い方だけど、嬉しいの」
「嬉しい?」
「ええ。辛い部分も弱い部分も話してくれるってことは、信頼されているとか頼られているとか、そういう風に感じられるから……だから、嬉しい」
「……そうか」
「デンジ君。私に出来ることなら何でもするから」
「……傍にいてくれ。それだけで良い」
「わかったわ」

元気を出して。そういう気持ちを込めて、抱きしめた腕に力を込める。私の前では全部吐き出してくれて良い。弱い部分も、不安定な部分も、全部を含めて私はデンジ君が大好きだから。貴方が実はとても繊細な心を持っているということを知っているから。
優しい彼がたばこに手を伸ばさないでいられるように、私で良ければいつだって駆けつけて精神安定剤になる。だから、明日にはまた、輝くようにバトルをする貴方を見せて欲しい。

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