頑張る君にエールを



体全体の三分の一の大きさめある頭を必死に持ち上げようとする姿を見ると、声を大にして応援したくなる。このうつ伏せ練習にはだいぶ慣れてきたようで、最近は持ち上げた状態を数秒キープ出来るようになってきた。持ち上げる、と言っても数センチそこらだが、二ヶ月少し前にこの世に産声をあげたばかりのリッカにとっては大きな成長だ。
疲れたのか唸りだしたので、ひっくり返して仰向けに直して腕に抱く。一仕事終えた、とでも言うように長く息を吐いて寛ぐ姿に吹き出してしまった。

「デンジ君、そろそろ出掛けましょう」

戦闘体勢に入ったレインは緊張した面持ちをしている。ここでいう戦闘体勢とは、リッカを連れた外出、のことだ。斜めにかけられているバッグには荷物がパンパンに詰まっているようで、準備万端のようだ。
レインの緊張がオレにまで伝わってくるようだ。なんせ、今日の外出は近所を散歩する程度のものではない。

「いよいよ、なんだな」
「ええ。必要な書類は持ったし、授乳も一時間前に済ませたわ」
「さっき計ったけど、リッカの体温も異常なしだ」
「じゃあ……行きましょう」

向かうは、生まれて始めての試練とも言える場所。

「「予防接種へ!」」







小児科へ来るのはリッカの一ヶ月健診の日以来だった。毎日一定の時間に予防接種外来の時間を設けられているここにいるのは、一歳未満と思われる赤ちゃんがほとんどだ。
受付を済ませたレインは問診票を受けとると、そわそわしながらソファーに腰を下ろした。

「なんだか、こっちが緊張しちゃうわね」
「そうだな。大人でも注射は嫌だからな」
「デンジ君も?」
「そりゃそうだろ。それなのに、こんなに小さい体に打つなんて」

産まれてたった二ヶ月から注射が始まるなんて知らなかったから、こんなにも早く問診票が綴じられた冊子が家に送られてきたときは衝撃だった。こんな小さい体で、折れてしまいそうな細い腕で、耐えられるのだろうか。泣くだろ絶対。寧ろオレのほうが泣く自信がある。

「ミィミ!」
「あら、タブンネ。今はここのお手伝いをしているの?」
「ミィ」
「そうなのね。はい、これ、書き終わった問診票。お願いね」
「ミー」
「先生は……あ、父さんの名前があるわね。父さんが打ってくれるのかしら」
「ミー。ミミミ、ミィ」
「え?そうなの?」
「タブンネ、何て言ってるんだ?」
「泣き叫ぶ可愛い孫の体に三本も打つなんて耐えられないからもう一人の先生のほうに回しますね……って、父さんが言ってたんですって」
「……」

と言って、レインは苦笑した。
衝撃だった。注射って三本も打たなければならないのか。一度にそんなに打って大丈夫なのだろうか。腕が腫れ上がったり、逆に体に悪かったりしないのだろうか。
そして、注射に慣れてるはずの医者すら耐えられないとはどういうことだ。いったい、どれ程の声を上げて泣くのだろう。オムツを変えて欲しいときの泣き声とは訳が違うことくらいは察しがつくが。

「リッカちゃーん!二番の診察室へどうぞー!」
「はーい!行きましょう」
「あ、ああ」

これからリッカに待ち受けている試練を思って情緒不安定になりかけたところで、順番が回ってきたようだ。
タブンネが言った通り、診察室の中にレインの父さんの姿はなかった。代わりに、幾分か若い男の先生が座っていた。

「こんにちは。予防接種は初めてですね?」
「は、はい」
「では、まずは少し診ますね。お父さんかお母さん、どちらか抱き抱えてここに座ってもらえますか?」

リッカはオレが抱っこしていたので、そのままオレが座ることにした。
聴診器で体の音を聴き、口の中や耳の中を診る。この辺は大人が注射を打つときとあまり変わらないのだな。リッカも大人しくしていることだし、これは楽勝……

「うん。大丈夫そうですね。では、早速打ちましょう。お父さん。頭と体をしっかり押さえつけていてくださいて」
「は?押さえつけ?」
「ここと、ここを、こう」
「は」
「動かないようしっかりと押さえていてくださいね」

控えていた看護士に言われるまま、リッカの頭と胴体に腕を回した。そして、その看護士が右腕をめくってこれまたしっかり両手で固定。最後に、先生が持つ注射器の先端がリッカの腕にあてがわれた、瞬間。

「ぎぃやぁああぁぁぁあぁぁぁ!!!!」

家で泣く声とは比較にならないほどの絶叫が鼓膜を揺らした。なんだ、これ。この部屋にはバクオングでもいるのか?と、そう思ってしまうくらいの声量だ。
思わず力を緩めそうになるとそれを見越していたのか「そのまま押さえていてくださいね」と看護士に言われ、慌てて力を込め直す。そのまま、同じ腕に続けて二本目。体勢を変えて反対の手に三本目。最後に、この世の終わりのような声で泣いている大きく開いた口に液体を足らされ。

「はい。これで終わりです。お疲れ様でした。副反応をみますから待合室で30分待機していてくださいね。それから最後の経口ワクチンは吐き戻さないように30分間縦抱きにしていてください。授乳をするならそのあとにお願いします」
「「…………」」

レインと二人して呆気にとられていたが、辛うじて「ありがとうございました」とだけ言って診察室をあとにした。
リッカは腕の中でスンスンとすすり上げながらも、おとなしく抱かれている。リッカはもちろんショックだっただろうが、オレ達も負けないくらい衝撃を受けたと思う。
注射のあとに貼られた絆創膏にピカチュウの絵が描かれているのを見つけ、少し、和んだ。子供が少しでも注射が怖くなくなるよう、こんな工夫もしてあるんだな。

「あんなに泣くんだな……」
「ええ……私、目を覆っちゃった」
「頑張ったよな。リッカ、偉いぞ」
「うー」

にやり。リッカの口角が得意気に上がった気がしたのは、気のせいではないだろう。最近のリッカは、話しかけると声を返したり、顔をしかめたり、笑ったり、一段と人間らしくなってきたから。

30分間待機して異常はみられず、ホッと息を吐いて帰ろうとしたところ「次は一ヶ月後に四本ですね」と看護士に言われ、オレとレインが青ざめたのは言うまでもない。何も知らないリッカは相変わらず、オレの腕の中ですやすやと寝息をたてていた。





2020.4.4


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