カランコエの花



けふ、と耳元で小さな音がした。最初はゲップをさせるのも一苦労だったけど、最近はわりと短時間で出せるようになってきた。少しは私も成長したの、かな?
刺激を与えないようにそっとベビーベッドにリッカを横たえる。背中がベッドについた瞬間、ビクリと両手をバンザイしてしまったけど、目が開くまではいかなかった。
ホッと一息つく。今回背中スイッチは発動しなかったようだ。

「新生児ももう終わりなんだな」

育児書を眺めていたデンジ君が顔をあげた。リッカを起こさないようにと密やかな声量だった。
そういえば、とカレンダーを見やる。リッカが産まれてから今日で28日目らしい。新生児と呼べるのは今日まで。明日からは乳児になるのだ。

「もうすぐリッカが産まれて一ヶ月か。なんか、大変だったけど、あっという間だった気がする」
「ええ」
「オレの育休も終わりだな。申請したのは一ヶ月だったから」

そうだった。今月いっぱいでデンジ君の育児休暇は終わり、今まで通りジムリーダーとしてナギサジムに出勤する日々が始まる。
その間、私はリッカと二人きりだ。日々の家事に加えてリッカの世話を一人でこなさなければならない。今まではデンジ君と一緒だったからなんとかやれていたけれど、これからは。
不安が顔に出ていたのか、デンジ君は私の頭をよしよしと撫でてくれた。

「そんな顔するなよ。何かあったらすぐに駆けつけるからいつでも呼んでくれ」
「ええ……」
「家事なんて二の次でいいからな。休めるときにリッカと一緒に休むこと。ポケモン達にも伝えておくからな。オレがジムの仕事でいない間はレインを助けてくれって」
「ふぇぇぇ!!」

肩が震えた。リッカが産まれて一ヶ月経った今も、泣き声にはまだ慣れない。
赤ちゃんは泣くことでしか欲求を伝えられないのだから、泣くのは当たり前だ。それは分かっている。
でも、その泣き声がまるで、母親失格だと言われている気がして、怖くなるときがあるのだ。
動けずにいる私の前をスッと通り、デンジ君がベビーベッドに歩み寄る。

「なんだ?どうした?お腹いっぱいになったはずだろ?うまく寝られないのかー?」
「……」

そう、声をかけながら、デンジ君がリッカを抱き上げる。
ああ、なんて優しい声色なんだろう。
デンジ君は、私みたいに思うことはないのかしら。リッカのことが、怖いと、思う、なんて。

「デンジ君」
「ん?」
「……リッカのこと、可愛い?」

こんなことを聞いて、幻滅されたかもしれないけど。愛する人との間に産まれた子を可愛いと思える余裕がないほど、産後のホルモンは私の心を乱していた。

「この一ヶ月間、どうだった……?」
「……そうだな」

デンジ君の腕に抱かれたリッカはすぐに大人しくなった。私が抱くとおっぱいの香りがして、泣き方がさらに酷くなることが多いからと、泣いたら率先して抱き上げてくれるのだ。
再びうとうとし始めたリッカを見つめる眼差しは、私や手持ちのポケモン達を見るものとは違うあたたかさ宿しているような、そんな眼差しだ。

「大変だと思うときもたくさんあったけど、リッカだって成長していつかオレ達の元を離れる。そう考えたら、いつかこの大変さを懐かしく思うときが来るんだと思う。だから、付きっきりで育児出来たこの一ヶ月は、仕事する以上に貴重な時間だったと思うんだ」

いつかリッカが一人で歩けるようになったとき、視線だけで私達を必死に追いかけていた彼女を思い出すのでしょう。
いつかリッカが喋れるようになったとき、顔を真っ赤にして泣いて必死に欲求を伝えようとしていた彼女を思い出すのでしょう。
いつかリッカがこの家を出ていくとき、空っぽになった部屋で彼女がいた日々を思い出すのでしょう。
彼女のことを思い出しながら、私達は少し泣いて、もう一度この手で赤ちゃんだったリッカを抱き締めたいと思うのでしょう。

こんなに大変なのに、苦しく辛いときもあるのに。いつかはそれを懐かしく、愛しく思える時間が来る。
子育てとはそういうものだと、デンジ君はきっと、そう言いたいんだ。

「いい加減泣き止んでくれー……って思うときも正直あるけど、それでもオレは、何より大切なレインにそっくりなリッカのことが可愛くて仕方がないし……幸せだよ」

まるで、雲間に光が射し込むように、目の前が明るくなった気がした。
ああ、何年経っても変わらない。やっぱりデンジ君は、私の光、そのものだ。

「ほら、最近は音が鳴るオモチャを目で追えるようになってきただろ?声がする方に首を向けるようになってきたし。そういう成長を間近で見られるのは……」
「……ふふっ」
「レイン?」
「うん……ありがとう、デンジ君。私、今まで腫れ物に触るように気持ちでリッカに接していたのかもしれない。でも……やっと、リッカの成長をしっかりと見てあげられそう」

この小さい命を守らなければと、生かさなければと、育てなければと、そういう使命感ばかりに気をとられて、純粋にリッカを可愛いと思う気持ちすらなくしていた。
でも、たぶん、もう大丈夫。私は私なりに、少しずつ、肩の力を抜くことが出来そうだ。

「……やっと笑ったな」
「え?」
「ふにぃ」

間の抜けた声に、思わず二人して頬がゆるんだ。こちらの気も知らずに、リッカは安心しきった顔で、寝言なんて口にしながら、寝息をたてている。
ああ、可愛い。いとおしい。この子が産まれたときに感じた想いが、胸の中に蘇ってくるみたいだ。

「レインが笑顔だとリッカもきっと嬉しいと思う」
「そうね。これからも大変なことや悩むことはたくさんあると思うけど、でも、もう少し肩の力を抜いて、楽しみながら育児が出来たらいいな」
「ああ。一ヶ月健診で許可が出たら少しずつ外出も出来るようになるんだろ?まずはこの太陽の街をみんなで散歩しよう。リッカにたくさんの景色を見せてやろう」
「ええ」

産後一ヶ月間、母親はゆっくり体を休めることが推奨されている。また、体が弱い赤ちゃんも産まれて一ヶ月ほどは室内で過ごすのが一般的だ。
もちろん、私達もそれに倣ってこの一ヶ月を過ごした。買い出しや外にいるポケモンのお世話はデンジ君が率先してやってくれていた。ずっと家の中に引きこもっていた私にとって、デンジ君の言葉は気持ちを明るくさせるのに十分だった。

デンジ君はいつも私の欲しい言葉をくれる。辛いときは寄り添って支えてくれる。迷ったら見守りながら導いてくれる。
強い母親にならないといけないのに、ダメね。やっぱり私は、デンジ君がいないと生きていけそうにない。

「ありがとう、デンジ君。デンジ君がいてくれて本当によかった。デンジ君の奥さんになれて、本当に私は幸せだわ。リッカもデンジ君がパパで幸せね」
「そうか?オレはまだ父親にはなりきれてないと思うぞ」
「どうして?リッカをすごく大切に可愛がってくれているし……」
「確かに、リッカのことは命よりも大切で可愛いけどさ……やっぱり、二番目に、なんだよな」

親である以上、子供の幸せを願うのは当然なのでしょう。何よりも我が子を優先させ、何よりも愛する。それが一般的だしそうあるべきなのだ。
きっとそれをデンジ君は理解しているし、実際に今、例えば地震でもあったら真っ先にリッカを抱き上げて守ろうとしてくれるに違いない。
でも、それを前提としてでも。

「レイン以上に大切な存在はいないんだよ」

こんな私を一番だと、そう言ってくれる。建前ではなく、心からそう想ってくれている。

「子供を一番にしなきゃいけないんだろうし、そもそも比べるものでもないのかもしれないけれど」
「……」
「幻滅したか?」
「……ううん」

この感情を、幸福を、なんと表現したらいいのだろう。

「デンジ君……ありがとう」

彼の胸に体を預け、心臓の音に頬を寄せながら、私はただ、振り絞るようにそう呟いた。





イメージソング『らいおんハート』
カランコエの花言葉「幸福を告げる」「たくさんの小さな思い出」「あなたを守る」
2020.2.14


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