38℃の温もりに浸かる



キッチンのシンクに置いたベビーバスの中に張ったお湯に温度計を差し込むと、ピッタリ38℃をさしている。念のため、自分の手を浸して確認する。うん、大人の感覚でいうと、ぬるい。でも、でもこれが赤ちゃんにとっては適温だという。お湯の温度が高すぎると、小さい体はすぐにのぼせてしまうらしいのだ。
後ろを見ると、リッカを裸にしてタオルにくるんで抱いたレインが待機している。レインは少し緊張した面持ちだ。オレもきっと、同じような表情をしているのだろう。今までレインが主にやっていた沐浴を、今日はオレがやるのだから。
リッカが産まれる前、パパママ学級とやらに参加して人形相手に練習こそしたものの、本物相手ともなると訳が違う。本物は動くし、体はふにゃふにゃだし、突然泣き出すかもしれない。うまく出来るか不安だが、やらないままだといつまで経っても出来ない。それに、せっかく一ヶ月間の育休をとったのだから、この期間はきちんとリッカと向き合いたかった。

「じゃあ、いくぞ」
「お願い」

レインからリッカを受け取って、腕に抱く。水が入らないように耳を押さえつつ、左手でふにゃふにゃの首を、右手でおしりを支えながら、足先からベビーバスに沈めていく。驚かさないように、ゆっくり、ゆっくり。
体を全てお湯の中に沈めたところで、一旦止まって様子を見る。気持ち良さそうに惚けたような表情を見せてくれたリッカを見て、思わずホッとした、が。

「ふえぇぇぇ……!」

次の瞬間、リッカは顔をシワシワにして泣き始めた。レインが心配そうに隣から覗き込んだ。

「な、なに!?熱かったのかしら?」
「いや、熱くはないと思うんだが……」
「あ!」
「どうした?」
「ガーゼ!体にかけてあげるの、忘れてるわ」
「あ」

そうだった。赤ちゃんは丸裸でお湯に入れるよりも、ガーゼを体にかけてからお湯に入れてやった方が安心すると、育児書に書いてあったじゃないか。
もう手が離せない状態となってしまったオレに変わって、レインが少し大きめのガーゼをリッカの体にかけてくれた。すると、リッカは嘘のように大人しくなったのだ。赤ちゃんは泣くことでしか意思表示が出来ないので、なぜ泣いているのか常に探らなければならないが、今回はレインの言うとおりこれが正解だったようだ。

さて、ようやく本番だ。育児書で得た知識と、レインがやっていた手順を思い出しながら、リッカの体を洗い始める。
まず、体にかけているものとは別のガーゼにお湯を含み、頭や顔を少しずつ濡らして、拭き取るように洗う。それを終えると、ポンプ式のベビー用泡石鹸を手に取り、頭や体を撫でるように洗っていく。そうそう、首のシワや脇などは汚れがたまりやすいから、特によく洗った方がいいんだっけ。
それにしても、お湯の浮力に助けられているとはいえ、左手のみで支えて右手のみで洗わないといけないのでぎこちない。洗い方もこれで本当に正解なのか、不安になる。

「レイン、どう思う……?」
「とっても上手だと思うわ。リッカも気持ち良さそう」
「それならいいんだけど、問題は……」
「ええ。ここから、ね」

胸やお腹といった体の表面は、比較的簡単だ。問題は、背中やおしりなどの裏面だ。今までのレインがやっていた洗い方を見る限り、体をお湯の中でひっくり返して、リッカをうつ伏せの状態にして洗っていた。首が座っていないくにゃくにゃの状態で、そんな体勢にするなんて、オレにとってはかなり勇気がいることだ。

「いくぞ……!」
「ええ……!」

深く息を吸って、覚悟を決める。レインが見守る中、思い切って左腕を持ち上げて頭を反対にやり、うつ伏せにさせた。オレの右腕にリッカの首から頭が乗っており、首から下はお湯の浮力により浮かんでいる状態だ。リッカは何が起きたのか理解出来ていないのか、無表情でボーッとしている。とりあえず、なんとかなりそうだ。
左手に新しく泡をとってリッカの背中を手早く洗い、最後に綺麗なお湯をレインかけてもらう。顔回りなどに残った泡は、またガーゼにお湯を含ませて拭き取るように流していく。とりあえず、これで完了だ。

「終わったぞ」
「じゃあ、このタオルの中心にリッカを」
「わかった」

テーブルの上に広げておいたバスタオルまでリッカを運び、包む。お湯に入れてからここまでの間、時計を見ると10分くらいかかっていたようだ。あまり長くお湯につけているとのぼせてしまうから、気を付けないとな。

「はー。緊張した」
「ふふっ。でも、様になってたわよ?パパ」
「そうか?それならよかっ……」

そこまで話したところで、固まった。リッカを包んでいたタオルが、じんわりと生暖かくなったからだ。ついでに、オレの手もしっとりと濡れた感覚を覚えた。無言でそこを見やる。

「あ!?」
「ど、どうしたの?」
「……これは、漏らしてるな」
「……」

そういえば、沐浴のあとは解放感なのか何なのか、よくおしっこをしてしまう赤ちゃんもいる、と育児書に書いてあったっけ。レインもしばらく固まっていたが、弾かれたように両手を叩いた。

「はっ!タオルの下に準備していた肌着は?」
「あー……ダメだ。そこまで濡れてる」
「じゃ、じゃあ私は新しい肌着をとってくるわね!デンジ君はおへその消毒とおむつをお願い!」
「了解」

慌てながらもテキパキと指示を出してくれるレインを見ると、頼もしくなったなと思う。
世間がよくいう「母は強し」とはこういうことだろうか。それはそうと、オレはレインが戻ってくるまでに任されたことをやらないと。
ベビー綿棒の先に消毒液を含ませて、まだへその緒がとれていないそこをちょんちょんとなぞり、ガーゼを貼る。そして、まだブカブカの新生児サイズのオムツをつけてやる。簡単に話しているように聞こえるかもしれないが、ようやくまともにつけられるようになってきたところだ。入院中に世話をしていたときは、オムツがズレたり漏れ出したりと大変だったのだ。

「お待たせ。新しい肌着を持ってきたわ」
「こっちも終わったぞ」
「じゃあ、着せてあげましょう」

この時期の赤ちゃんは、短肌着とコンビ肌着という名前の肌着を重ね着して、その上からカバーオールというオレ達でいうところの洋服を着るらしい。最初に名前を聞いたときは覚えられる気がしなかったが、人間どうにか順応するものである。
全てを着せ終えたところで、一通りの作業がようやく完了だ。思わず脱力して座り込んだ。

「終わった……今度こそ終わったな……?」
「ええ」
「緊張で疲れた……慣れるまではバタバタしそうだ……」
「ふふっ?そうね……ねぇ、デンジ君」
「ん?」
「見て」

テーブルのど真ん中でリッカはすやすや眠っていた。リッカも緊張して疲れたのだろうか。それとも、気持ちよくて安心したのだろうか。ああ、この寝顔を見ると疲れなんて吹き飛んでしまうな。

「私達も少し休みましょうか」
「そうだな」

リッカを起こしてしまわないよう、そっとベビーベッドに移した。起きたらまた慌ただしく育児に追われるだろうが、それまでは愛しい寝顔を眺めながら二人でゆっくりすることにしよう。それはまるで、沐浴の温度のような生ぬるい束の間の休息に浸るように。





2020.1.4


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