夜の浅瀬に眠る



夜が来るのが怖かった。八畳ほどの広さの空間に朝まで二人きりでいると、まるで世界でここだけが隔離されたかのような錯覚に陥ることがある。夜が明けるまで逃げ道はない。誰も助けてはくれない。全て私が何とかしなくてはならない、と。
極端だと自分でも分かっている。でも、産後の精神というものは思っていた以上に繊細で、不安定だった。理由もなく泣けてきたり、自分を必要以上に追い詰めてしまったり、誰かの些細な言動すら気になってしまったりする。
常夜灯のほの暗い明かりすら、時折、眩しすぎるように感じる。いっそ、真っ暗にしてしまおうか。そうすれば、暗闇に溶け込むように夜に溶け、何事もなく朝を迎えられるような気がした。

「……ふぇ」

消え入りそうな声が微かに聞こえ、片方のまぶたを持ち上げた。クイーンサイズのベッドから見える位置に設置されたベビーベッドの柵の隙間から、小さな手が宙を掻くように動いている。
母親というものは子供に対してとても敏感な生き物らしい。子供の泣き声はもちろん、寝息や寝具の擦れる音でさえ目を覚ましてしまう時がある。それは子を守り育てなければならないという本能からくるものなのかもしれないし、そもそも女性の脳回路はそういう風に出来ているという記事を見かけたこともあった。
置き時計を見ると六時を回ろうとしていた。どうやら前回から三時間と少し空いたみたいだ。ということは、私もその間は眠れたはずなのだけど、頭がボーッとしていてとてもそんな気がしなかった。女性の、母親としての本能が働きすぎるのも良くない、な。寝ている間も気を張っているのか、疲れがとれた気がしない。

「ふぇぇ……!」

ああ、本格的に泣き出してしまう前に泣き止ませないと。重い体を起こしてベッドから降り、ベビーベッドの柵を下ろす。顔をシワシワにして泣き始めようとしているリッカを抱き上げると、産まれたばかりの頃とは違う重みを両腕に感じた。
ベッドに腰かけて、脇に置いていた授乳クッションに体を通し、その上にリッカを乗せた。サイドテーブルの置き時計で左右の授乳時間を確認しながら、必死におっぱいを飲んでいるリッカの横顔をボーッと眺める。
産後、入院していた頃はなかなかうまくいかなかった授乳。まず、おっぱいを上手に咥えさせることが大変だったし、私の抱き方だって下手だった。練習と頻回授乳の甲斐があってか、今やおっぱいは十分に出ているようだし、飲む方も飲ませる方も慣れてきてスムーズに授乳することが出来るようになった。リッカの体重が順調に増えているのがその証拠だ。

左右各十分ずつほど飲ませ、オムツを変えるまでが一つのサイクル。それを終えると、リッカは満足しきった顔ですんなり眠っていく。親孝行な子だと思う。お腹が空いたと催促する以外で、リッカは夜泣きをしたことがない。だから、私は体を十分に休められているはずだし、睡眠だってとれているはずだ。それなのに、やっぱり頭がボーッとする。
手を洗うついでに顔も洗ってしまおう。そう思って、そっと寝室を出た。お利口に寝てくれたリッカを起こさないように、音をたてないように。そーっと、そーっと。

「ふわぁ……おはよ」
「デンジ君。おはよう」

顔を拭いているとデンジ君が起きてきた。欠伸を噛み殺したような顔を見てドキリとする。
リッカが産まれてから一ヶ月間という期限付きだけれど、デンジ君は育児休暇をとってくれている。でも、夜泣きや夜間の育児で寝不足になり共倒れになってしまったら大変だからと、夜のリッカのお世話は完全に私が担当している。授乳があるのだし、今のところ完全母乳でなんとかなっているからそうなるのも当然だった。寝かしつけてから朝まで、リッカは二、三回ほど泣いて起きるので、その都度授乳とオムツを変えている。
今までデンジ君と二人で眠っていた寝室にベビーベッドを設置したので、デンジ君は空き部屋に簡易ベッドを設置してそこで眠っている。だから、リッカが大声で泣いたり、私が大きな音をたてない限りは睡眠の邪魔をすることはないはずだけれど、夜中、起こしてしまったのだろうか。

「ごめんなさい。夜中、眠れた?泣き声、聞こえちゃった?」
「ん?眠れたけど……」
「……?」

デンジ君は難しい顔をして後頭部を掻くと、私を引き寄せて髪をポンポンと撫でた。それだけのことなのに、不思議。とても安心する。心が軽くなる気がする。

「そもそも赤ちゃんって泣くものだろ?というか、リッカは夜泣きはほとんどしないみたいだし、そんなに気を遣わなくて良いから」
「でも……私が産褥期だからって、デンジ君は今ほとんどの家事をしてくれているでしょう?私は昼間もお昼寝したりして休ませてもらっているから、夜くらいはデンジ君にしっかり休んで欲しいの」
「オレは本当にきちんと眠れてるよ。夜はレインがリッカをしっかり見ててくれてるからな。レインは?眠れてるのか?」
「眠れてる、とは思うけど……」
「でも、顔を見る限り、疲れはとれてない感じだな。次にリッカが起きるまでもう一眠りしてこいよ。同じ部屋で寝てると、気になって集中して眠れないだろ?オレのベッドで寝て良いから」
「デンジ君……」
「リッカがお腹空いて泣いているようだったら呼ぶ。オムツを変えたり抱っこしたりはオレでも出来るけど、空腹はオレじゃどうしようもないからな」
「……ありがとう」

微かに視界の隅が滲んでいるのは、きっと気のせいではない。ああ、デンジ君がいてくれて良かった。産後、一人だったらきっとどうしようもなかった。体はともかく、きっと気持ちに余裕を持てなかった。近くに誰かがいてくれるだけで、こんなに気持ちが楽になるんだ。

デンジ君のお言葉に甘えて、別室の簡易ベッドに横になる。静かに目を閉じて息を吸う。まだ、微かにデンジ君の体温が残っている。デンジ君の香りがする。シーツにくるまると、優しく抱き締められているように安心できる。
夜に怯えていたのが嘘のように、深い眠りに誘われていく。次に起きたときはきっと、笑っておはようと言えるはずだ。





2019.12.30


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