むつのはな



耳を澄まさないと聞こえないような、とても小さな寝息。 小さく上下するお腹。少し物音を立てたらビクッと両手が開く。モロー反射、というんだったかしら。
こんな存在、知らなかった。吐かれる息すらいとおしい存在なんて、初めて知った。

「よく寝てるな」
「ええ」

この子を起こさないように、デンジ君は私の耳元で囁いた。この愛しい存在を私に与えてくれた、私のもう一人の愛しい人。デンジ君にも心の底から感謝をしたい。

出産を終えた私は、産後ニ日目からようやく母子同室を開始した。それまでは私の体調が安定しなかったり、破水や麻酔により発熱したり、血圧が上がって動けなかったりと、色々問題があったのだ。新生児室に面会には行けたけれど、体が動かなくて思うようにお世話出来ず落ち込んでばかりだった。
自分が産んだのにきちんとお世話出来ないなんて……と、早くもマタニティーブルーに陥りかけた私を、助けてくれたのはデンジ君の存在だった。今休むことも立派な子育てのうちだって言ってくれて、どれだけ救われたことか。
母子同室となってからも、育児休暇をとってくれたデンジ君はもちろん、一緒に部屋に泊まって育児を頑張ってくれている。オムツ替えや着替え。さすがに授乳練習は私しか出来ないけれど、足りない分のミルクをあげるのはデンジ君の役目だ。この子にミルクを与えるデンジ君の姿を見ると、ああ、本当に産んでよかったなって、涙が出そうになるくらい幸せだった。

そして、今日は面会者が来ている。この子の誕生を自分のことのように喜んでくれた、オーバ君だ。来てからというもの、オーバ君は小さなベッドにくっついたまま離れなかった。

「おい」
「んあ?」
「近い。それに顔がキモい」
「いやこれは仕方ないだろー。にやける可愛さだよなー。ちっさいなー。いいにおいするなー」
「可愛いのは当たり前だろ。オレとレインの子だぞ」

当然だ、とでもいうようにデンジ君は鼻を鳴らした。
この子は、雨のようなアイスブルーの髪と、今は閉じているけれど海のような目の色をしている。パッと見ると私似だけれど、パーツ一つ一つははっきりしていて、デンジ君の遺伝子が組み込まれているんだなと分かる。
見た目云々差し引いても、この子は可愛い。目に入れても痛くない、というのはこういうことを言うのかしら。

「レイン。体は大丈夫なのか?」
「ええ。体重は戻ってきたし、血圧も高めだったけど落ち着いてきたから」
「そっか。でも、産んですぐ赤ちゃんの世話が始まるなんて大変だよな。バクが赤ちゃんだった頃は夜泣きがすごくて、家族みんなげっそりしてた記憶があるぜ」
「そうね……でも、お腹いっぱいになってくれたらわりとすぐ寝てくれるから、今のところは大丈夫。デンジ君もいてくれるし」
「そうそう!俺ももう帰るから、赤ちゃんはデンジに任せてゆっくりしろよ?」
「ありがとう。オーバ君」
「あ、これリーグとジムリーダー一同からお祝いな。みんなで押し掛けたら大変だろうから、代表で持ってきた」
「ああ。悪いな。そういえば、内祝いも考え始めないとな」
「ええ」
「あ!帰る前に写真撮らせてくれよ。エイルに送らないと」
「ワンショット千円な」
「たけーよ!」

そんなやり取りをしていると、この子がふにゃふにゃ声をあげたので、思わず三人で顔を見合わせ、唇に指を当てた。ドキドキして見守っていたけれど、この子は両手をWの形にしたまま、また眠りの世界へ戻っていった。また三人で、顔を見合わせて笑った。
思う存分シャッターを切り、満足したオーバ君はお土産を置いて部屋を出ていこうとした。でも、ドアノブに手をかけた瞬間、踵を返した。

「そうだ。肝心なこと聞くの忘れてた」
「なんだよ」
「名前!もう決まったのか?」

ああ。そっか。この子のベッドには母親である私の名前と産まれた日、身長や体重しか書かれていないから、肝心な名前はまだ伝えていなかったんだっけ。
私とデンジ君は目を合わせて頷いた。

「何にしたんだ?産まれる前からいろいろ考えてたよな?」
「ええ。でも、全然違う名前になっちゃった」
「そうなのか?」
「この子が産まれた日、とてもいい天気だったんだけど、産まれる前後の一時間くらいかしら。雪が降ったの」
「雪!?なんでまた。季節外れだな」
「その日は気温が低いわけでもなかったし、特性ゆきふらしのポケモンが近くを通ったのかもな」

陣痛に合わせて力んでいた束の間の休憩中、青空から雪が降る不思議な光景を窓から見たとき、訳もなく泣きたくなった。そのくらい美しくて、特別な景色だった。

「その雪がとてもキレイで……まるで空からの贈り物みたいに見えたの。だから、その時の気持ちを忘れないように、この子には雪の名前をつけることにしたの」

泣きたいくらい愛しい気持ち。雪と共に産まれた、愛しい存在には雪の名を。

「この子の名前は、リッカ」
「リッカ、か……なんだかキレイな言葉だな」
「ありがとう。雪の結晶っていう意味の言葉なんですって。デンジ君が調べてくれたの」

リッカ。これが、パパとママからの初めてのプレゼント。
白く美しい雪のように、純粋で清らかに、真っ白な心を持って、幸せな人生を歩んで欲しい。そんな想いを込めて、この名前を贈ります。
リッカ。私達のいとしい子。





2019.9.28


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