あまえんぼの小さな独占



 薄く開いた唇から柔らかな息が漏れている。まあるく膨らんだお腹は上下に動いて、この小さな人間が生きているということを証明している。
 顔の両側に置かれた手のひらをリオルが興味本位でつついてみると、リッカは一瞬だけビクリと体を震わせ、手を開いた。しかし起きることなく、再びまどろみの中に落ちてしまった。
 クスクスと囀るような笑い声が聞こえてきた。レインの声だ。ソファーに座って紅茶を飲んでいたレインは、暖かな眼差しでリオルとリッカの様子を見守っていた。
 その温かさに包まれたくなったリオルは、ベビーベッドを離れてレインに近付き、両手を控えめに伸ばした。

『レインさま』
「リオル。どうしたの?」
『あの……抱っこしてほしいです』

 内心、リオルはドキドキしていた。この我侭がレインの迷惑にならないだろうかと、不安を捨てきれずにいたからだ。
 リッカが生まれてからというもの、レインは昼夜問わず、いや、24時間フル稼働の生活を送っている。人の命を育てるということはそういうものだ。ゆっくりと紅茶を飲んでいるように見えて、視線はリッカから外していない。リッカが眠っているときだって、うっかりうつ伏せになって窒息しないかとか、寝返りを打ってベビーベッドに挟まらないかとか、本当の意味で気を休めることはできないのだ。

「いいわよ」
『え?いいんですか?』
「もちろんよ」

 レインはほほ笑みを浮かべて、リオルの両脇の下に手を差し込み、膝の上にのせた。リオルが頬をレインの胸元に寄せると、とくん、とくんと小さな音が聞こえてくる。まるで子守唄みたいだと思った。柔らかで優しいその音を聞きながら眠ることができたら、とても幸せだろう。
 そう思って、リオルが瞼を落とそうとしたとき。

「ふぇ、ふぇぇ……!」
『!』
「あ、ごめんね。リオル。リッカが起きちゃったみたい」
『はい……』

 レインはリオルをソファーの上に下ろすと、スリッパを鳴らしながらリッカのもとに小走りで駆けていった。すくい上げるようにレインが抱き上げて体を密着させた途端に、リッカは嘘のように泣き止み、また規則正しい寝息を紡ぎ出す。
 リッカはまた赤ん坊で、泣くことでしか意思を伝えられない。寝返りさえまだままならないのだから、泣くことで誰かの注意を引かなければ生きていけないのだ。わかっているつもりでも、凍えるような色をした感情の波導が心を蝕んでいくのを止められなかった。
 リオルは大きな耳をぺたんと垂らして、ぎゅっと握った。この波導がレインに伝わりませんように。伝わってしまったら心配をかけてしまうから。

「リオル」

 名前を呼んでくれた声のお陰で、少しだけ悲しい波導が緩んだ。デンジだ。ジムリーダーとしての務めを終えてジムから帰ってきたデンジは、ソファーの上で小さくなっているリオルに向かって手を伸ばした。

『デンジさま』
「ん、おいで」
『っ』

 リオルは寂しさから逃げるように、デンジの腕の中に飛び込んだ。リオルを抱きとめたまま、デンジはリビングからそっと出ていく。しかし、体を揺らしながらリッカを寝かしつけようとしているレインが、心配そうな視線をリオルへと送っていることに気付かないデンジではなかった。大丈夫だというように片目を閉じて、音を立てないようにそっとドアを閉める。

「リオルは偉いなぁ。リッカに抱っこを譲ってくれたんだな。ありがとな」
『……』
「でもな、甘えることをずーっと我慢しなくても良いんだぞ?」

 リオルは弾かれたように顔を上げた。不思議だった。デンジはレインと違って波導使いではないというのに、どうして自分の考えていることがわかるのだろう。
 リオルはデンジのジャケットをギュッと掴んで、黒いシャツに顔を埋めた。とくん、とくん。レインの心音とは少し違う、力強く太い音に少しだけ心が和んだ。

『だって、リッカさまはまだ赤ちゃんだから……リオルのほうがおねえちゃんだから……』
「それでも、リオルにとっての一番はレインだろ?レインが大変だろうからって甘えるのを我慢してくれるのもいいけど、たまにはレインを独り占めしていいんだ。リッカにはオレもいるんだから」
『……レインさまを独り占め』

 リッカが生まれたとき、リオルはとても嬉しかった。自分に妹のような存在ができたから、というのももちろんだけれど、大好きなレインとデンジが心から大切にしている小さな命が、無事に生まれてきてくれて安心したのだ。幸せそうなふたりを見ていると、リオルまで幸せな気持ちになったのだ。
 でも、リッカはまだ赤ちゃんで、誰かが世話をしないと生きていけない。家庭によって様々なケースがあるが、一年間の育児休暇をとることができたレインが中心になってリッカの世話をするのは自然な流れだった。レイン自身もそれに喜びを感じていた。その姿はリオルの知らないレインの姿。母親としての姿だった。
 レインの手持ちの中でも一番幼い自分に、一際強い愛情を注がれていたという自覚がリオルにはあった。他の手持ちのみんなも、まだ幼いリオルがレインに甘える姿を微笑ましく思い見守ってくれていた。だから、今度は自分がそうしなければいけないのに。
 寂しい、なんて我侭だ。でも。
 この気持ちを、レインは受け止めてくれるだろうか。

(レインさま)

 リビングに戻ってきたリオルは、波導を使ってレインに声をかけた。これならリッカを起こすこともない。
 まだリッカを抱いたまま体を揺らしていたレインは、不思議そうに首を傾げながら、でも同じように波導を返した。

(リオル、どうしたの?わざわざみんなに聞こえない波導を使って……)
(……あの……リオル、お散歩にいきたいです。レインさまとふたりで)

 並んで、手を繋いで、大好きなナギサシティを歩きたい。ずっと自分のことだけを見ていてほしいなんて言わないから、どうか。
 レインは少しだけ驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにその目を柔らかく細めて、微笑むと。

「デンジ君」
「ん?」
「少し出かけてきてもいいかしら?夕食の足りない食材を買ってこようと思うのだけど」
「ああ。もちろんだ。リッカはオレが見てるから」
「ええ。お願いします、パパ」

 そう言って、デンジにリッカをそっと預けて、リオルに手を差し出した。

「リオル、一緒に来てくれる?」
『!はいっ!』

 伸ばされた手をギュッと掴んで、リオルは嬉しそうに笑った。少しだけ、おねえさんの時間はお休みだ。レインとふたりきりの今だけは、タマゴから孵ったばかりのあの頃のように、素直に甘えられる気がした。



2021.08.10


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