六花
リッカが私とデンジ君の元に来てくれた日のことを今でも覚えている。爪の先にも満たない大きさの命が、確かに鼓動を刻んでいるのを見たあのとき。涙が、止まらなかった。
お腹の中で一緒に過ごしたトツキトオカ。そして、この世に産声を上げてから今までの365日。爪の先にも満たなかった命は、私たちの腕に抱かれながら安らかな寝息を立てている。
「リッカ、すぐ眠っちゃったわね」
「今日一日楽しかったんだろうな。朝から遊びに出掛けて、帰ってきたらプレゼントをもらって、一日早い誕生日パーティーをやって……あれ、なんだっけ。ケーキを鷲掴みにして食べるやつ」
「スマッシュケーキ?」
「そう、それだ。手を使って自分で好きなように食べられるなんてリッカにとっては初めてだったからかな。楽しそうだった」
「ふふ。頭からつま先までクリームまみれでお片付けとお風呂が大変だったけどね。でも、リッカが楽しそうだったし思い出にも残ってよかったわ」
コチ、コチ、コチ。秒針は一定の速度で時間を刻んでいく。それを少しだけ恨めしく思ってしまった。今だけ時間が止まればいいのに。もしくは、もっとゆっくり時間が進んだらいいのに。
「デンジ君」
「ん?」
「私は……この1年間、リッカにきちんと向き合えていたかしら」
リッカが1歳を迎えたら、私は育児休暇を終えてノモセジムでの仕事に復帰する。その間、リッカは保育園に預かってもらうことになる。私にとって、また水ポケモンたちと働くことができるのは、とても嬉しいことだし楽しみでもある。けれど、生まれる前から今までずっと一緒だったママと離れて、知らない場所でひとり迎えを待つリッカを想像したら、少しだけ胸が痛い。もちろん、先生たちがしっかりお世話して遊んでくださるし、リッカもすぐに慣れると思うから心配する必要はないとわかっている。
ただ、私が子離れできていないだけ。まだ1歳になったばかりの可愛い我が子の成長を、一番傍で見られなくなるのが寂しいだけ。
この1年間、私はリッカと真剣に関わることができたかどうか……少しだけ、自信がない。
「オレは」
リッカの頭を撫でていた私の手に、デンジ君は自分のそれを重ねる。
「リッカのこの姿が答えだと思う」
ぷっくりした桃色の頬と、緩んだ口元から漏れる温かな寝息。そして、時折笑みさえ浮かべている幸せそうな寝顔。
笑って、泣いて、寝て、遊んで、食べて。私がリッカと過ごした時間にできたのはたったそれだけだけど、リッカにとってはそれが世界の全てで、その繰り返しが今の姿に結びついているのだとしたら。
「あー……」
リッカが目を擦りだしたので慌てて口を噤む。リッカは顔をくしゃくしゃにして手で擦り、またバンザイをして夢の世界に戻っていった。
その瞬間、リッカはニッと笑って。
「まんま……ぱ……ぱ」
確かにそう、言ったのだ。
本人に意識があったのかはわからない。偶然だったのかもしれない。でもそれは、私にとって宝物のような偶然で。
涙が、溢れた。
「レイン、今」
「ええ……初めて呼んでくれた……ふふ、私たちがプレゼントをもらっちゃったわね」
身体も心もめちゃくちゃになりながら、この世のものとは思えない痛みを乗り越えて巡り会えたことも。寝ぼけ眼になりながらいくつもの夜を一緒に過ごしたことも。食べてくれない離乳食にうんうん唸りながら味付けに試行錯誤したことも。
育児は楽しいことばかりじゃなかった。自分の子供だからといって毎日、無条件に愛せるわけじゃなかった。でも。
意味ならあったのだ。ここに。
「リッカ」
初めて首を持ち上げたこと。初めて寝返りできたこと。初めて授乳以外で食べ物を口にしたこと。這いながら前進できるようになったこと。お座りができるようになったこと。つかまり立ちができるようになったこと。
辛かったこと以上に嬉しかった思い出が、私の中を駆け巡る。
「ありがとう……」
きっと、リッカは全て忘れてしまう。だから、私が覚えていよう。リッカとの思い出を、全部、全部。
リッカと過ごしたこの1年。私にとって宝石よりも価値がある、泣きたいくらいに愛おしい日々を。
「デンジ君もありがとう。リッカの成長を傍で見られたのは本当に幸せなことだったけど、きっとデンジ君も一緒だったから何倍も楽しいものになったんだわ」
「ああ。一緒だと「あの時はああだったな」「あんな辛いこともあったよな」って、思い出話ができるしな。あ」
デンジ君の視線を辿る。部屋にかけられている時計の秒針がコチ、コチ、コチと動いて、全ての針が重なって12の数字を指した。日付を飛び越えた先はリッカが生まれた日。リッカの誕生日だ。
「「誕生日おめでとう、リッカ」」
お誕生日おめでとう。貴方が産まれてきてくれて、私の世界はまたひとつの光に満たされました。
「デンジ君もパパ1歳ね。おめでとう」
「あ、そっか。それならレインもママになって1歳だな。おめでと。これからも一緒に、リッカの成長を見守っていこう」
「ええ」
リビングに戻ってふと窓の外を見ると、雪が降っていた。リッカが産まれた日も降っていた、季節外れの雪。
白くて、柔らかくて、羽根のようで。とても、綺麗。
「ん?雪か?」
「ええ。リッカが産まれた日と同じ」
「そうか……雪なんて寒いし、積もると大変だとしか思ったことなんてなかったけど、リッカが産まれてきてくれたお陰で大好きになったよ」
「私も、雪が降るたびにリッカが産まれてきてくれた日のことを思い出すわ」
「オレにとっては雨もそうだけどな。小さい頃は雨の日なんて憂鬱だったけど、今は雨が降るたびにレインと出逢ったときのことを思い出す。雨も雪も、オレにとって空からの贈り物かもしれないな」
私と出逢ったことも、リッカを授かったことも、デンジ君にとって掛け替えのない宝物のような出来事だったのだとしたら。これ以上嬉しい言葉はない。そう、思った。
「じゃ、大人だけでお疲れ様を会するか」
「そうね。リッカのケーキを作る時に大人用のケーキも作ったから食べましょう。ふふ、こんな時間だけど今日は特別よね」
「だな」
しとしとと、しんしんと。雨も雪も空から落ちて海に還る。私たちが大好きな海へと。
太陽に愛された海辺の街で、私たちはこれからも幸せを紡いでいくのだ。
2021.01.05 END
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