美食家はご機嫌ナナメ



 今日の午後はポケモンたちの健康診断の日だった。ポケモン医がジムまで来て、所属しているポケモンたちを問診したり色々測定したりするのだ。予防注射も射ったのでその後のジム戦はなし。健診が終わったポケモンとトレーナーから順次退社することになり、オレもまだ日が落ちる前の歩道橋を、いつもより少し早い足取りで家路についている。
 リッカを風呂に入れるのは夕方なので、いつもだったら平日は時間の関係で難しいが、この時間に帰ったらもしかしたら間に合うかもしれない。リッカと一緒に入る風呂は癒やしの一言なのだ。今週は一日多く一緒に風呂に入れると思うと今から楽しみで仕方がなかった。

「ただいま」

 玄関で帰宅を告げたが、特に返事はなし。もしかしてもう風呂に入っているのかと思ったが、リビングから話し声がしているのでそうではないらしい。いつもならリッカを抱っこしてレインが駆け寄ってきてくれるのだが、夕方に差し掛かるこの時間はきっと忙しいのだろうと思い大して気にせずリビングに向かう。そして、リビングに続くドアを開けたそのままのポーズで、オレは固まることになってしまったのだ。

「あっ、デンジ君おかえりなさい。そっか。今日は早く帰れる日だったっけ。お出迎えできなくてごめんなさい」
「いや、それは全然良いんだが……これはどういう状況だ?」

 リビングには予想を遥かに上回る光景が広がっていた。ちょうどリッカに離乳食を与えていたらしいのだが、離乳食をリッカの口に運んでいるレインの体と、それを見守っているシャワーズの体には米やら野菜やらが飛び散っていたのだ。ベビーチェアの下に敷かれている新聞紙も、リッカの顔も、言わずもがな悲惨である。ここまで来るとスタイが何の意味もない。
 レインはほとほと困り果てたというように苦笑する。

「見ての通りというか……」
「見てのとおりだと、米粒を頭から浴びてるレインとシャワーズ……なんだが……」
「……見ててね」

 レインはスプーンに粥をひと掬いして、リッカの口元に近付ける。それをリッカは大口を開けてパクリ、と食べたのだが。

「っぶーーー!」
「シャワーッ!?」
「うわ!?リッカなにやってるんだ!?」

 次の瞬間、顔を梅干しのようにシワシワにして唇を尖らせ、食べたものを勢いよく吹き出したのだ。その餌食になったシャワーズは悲鳴を上げながら後ずさり、体についた粥をペロペロ舐めている。

「最近の離乳食はいつもこんな感じなの。口の中のものをブーブー出しちゃうし、おててを口の中に入れちゃったりして……」
「うわ……それは大変だよな。朝も夜もオレがジムに行ってる間に食べさせてるから全然気付かなかった」
「ええ……来月から3回食になると思うと少し気が滅入っちゃって……美味しくないのかしら」
「いや、そんなことないだろ。レインの飯を美味しくないなんて言ったら世の中のほとんどの食べ物が美味しくなくなるぞ?」
「……ふふ。ありがとう」

 ジムに行く時間の関係で、朝も夜もリッカの離乳食の時間にオレはいないことのほうが多い。普段から料理上手なレインのことだから、離乳食も卒なくこなしていると思い込んでいたことを少し反省した。一生懸命時間をかけて作った離乳食をこんな風に吹き出されたら、いくら優しいレインでも傷付くし悲しいに決まってる。しかも、これを朝晩と繰り返しているのだと思うとゾッとした。散らかったテーブルの片付けとレインとリッカ自身の着替えなど、考えたら離乳食なんて放り出したくなりそうだ。

「こういう時期だと思って諦めるしかないのかしら……」
「そうだなぁ……シャワーズはどう思う?」

 体を丁寧に舐めていたシャワーズはその動作を止めて、新聞紙の上に落ちていた粥の塊をパクリと口にした。そして思案したかと思うと、少し躊躇う素振りを見せたあと、レインに向かって鳴いたのだ。オレにはシャワーズがなんて言っているかさっぱりだが、波導によってシャワーズの言葉を正確に理解できるレインはパチリと瞬き、ぽかんと口を開けた。

「え?味付けが薄い?」
「シャワー」
「そういえば、離乳食を始めた生後5ヶ月の頃から味付けはほとんど変えてないわね……素材の味そのままを覚えてほしくて、たまにお出汁で味を付けるくらいで……」
「そうか?赤ちゃんなんだからそんなものじゃないのか?」
「……リッカ、ちょっと待っててね」

 何やら思案したかと思うと、レインはキッチンへと立った。オレはテーブルの上を拭きつつ、リッカにお茶を飲ませてやる。お茶は吹き出すことなくストローでごくごくと上手に飲んでくれたので安心した。お茶まで吹き出されたら大惨事だ。
 キッチンから戻ってきたレインが手にしていたのは醤油だった。それをほんの一滴、粥に垂らしてスプーンで混ぜる。それをリッカの口元へと運ぶ。
 醤油一滴なら、気持ち、風味がついた程度の味だろう。それでも、粥を口の中でもぐもぐと咀嚼したリッカはそれを吐き出すことなく、ごくりと飲み込んだのだ。 

「食った!」
「え、本当に味が物足りなかったの?」
「あーあっ!」
「そっか……味覚もちゃんと成長していたのね。シャワーズ、私に気を遣ってくれたのね。伝えてくれてありがとう」
「シャワッ」
「赤ちゃんなりに理由があるんだな」
「ええ。理由がわかったならまた頑張れそうだわ。今度離乳食のレシピ本を買ってみる。少しずつ調味料を使っていいのなら作りがいがあるわ」

 基本的に家事は分担してやっているのだが、料理に関しては専らレインに任せっきりだ。もちろん、記念日や何か特別な時にオレが料理を振る舞うこともあるが、レインの料理は本当に美味いので他を食べたいと思わないのと、オレ自身自分が作った料理の味を「微妙」だと自覚しているため基本は触れないことにしている。何か一品作るだけでも大変なのに、複数のメニューを赤ちゃん用で考え、毎食作るとなったらそれだけで一日が終わってしまいそうだ。

「気合入れるのもいいけど、無理して毎食手作りして疲れないか?」
「大丈夫。まとめて作ってフリージングしたり、市販のベビーフードを使うときもあるから。こう見えても、頑張りすぎないで適度に手を抜くことも覚えたのよ」
「そっか。それならよかった」

 少しだけ茶目っ気を含ませてレインは笑った。オレの心配はどうやら杞憂だったようである。手抜きを愛情がないとか、そういう心無いことをいう人間もいるだろうが、オレはそうは思わない。赤ちゃんのために、まずはママが明るく元気でいられることが一番大切だと思うのだ。

「とりあえず、レインは先にシャワーズと一緒に風呂に入ってきたらどうだ?体中ベトベトだろ?リッカにはオレが食わせるし、そのあと風呂にも入れるから」
「ありがとう、デンジ君」
「あーっ!」
「なんだよリッカ。美味かったのか?今度は早く寄越せって催促するんだからズルいよな」
「ふふっ」

 今は好奇心に負けて料理で遊んだり、味付けが不満だからと料理を吹き出してしまうリッカも、いずれ気付くだろう。レインが、ママが作ってくれた料理以上に美味しいものなんてこの世にないということに。





2020.11.21


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