熱を帯びる呼吸音



 コチ、コチ、コチ。時計の針が時間を刻む音と、リッカの寝息だけが室内に響く。寝息はスヤスヤと安らかなものではなくて、喉の奥で痰が絡んだような音がする。平熱以上に熱くなった頭は汗でしっとりと濡れ、髪が額に張り付いている。
 その時、遠くで玄関の鍵が開いた音がした。静かに絵本を読んでいたリオルが『デンジさまです!』と駆けていく。リオルが出ていき開け放たれたリビングのドアからはすぐにデンジ君がひょっこりと顔を出した。

「ただいま」
「おかえりなさい。デンジ君」
「リッカが熱出したんだって?様子はどうだ?」

 デンジ君は荷物を置くと手を洗ってリッカの額に手を伸ばす。まだ眠っているリッカを起こさないように、優しく、そっと触れると、微かに目を見開く。

「あつっ!?だいぶ熱が高そうだな……」
「ええ。でも、熱だけだからおうちで様子見で大丈夫でしょうって、病院の先生が」
「そうか……最近、暖かくなってきたかと思ったら冷え込む日もあるし、風邪引いたのかもな」
「ええ。ちょうど産まれて半年経つと母親からもらう免疫が切れ始める時期でもあるらしいから、それも原因かなって」
「シャワー」
「シャワーズが傍にいて熱を冷やしてくれてるんだな」

 私とリッカにぴっとりとくっついてくれているシャワーズは控えめに(そうだよ)と鳴いた。高熱のリッカを抱っこしていると私までとても熱くなるから、シャワーズの低い体温には本当に助けられた。なによりも一緒にいてリッカを見守っていてくれることが嬉しかった。

「薬は貰ったのか?」
「解熱剤だけ。どうしても熱で眠れないときに使ってくださいって。発熱は菌と戦ってる証拠だから無理に体温を下げなくてもいいみたいなの。あとは、離乳食も無理にあげなくてもいいって」
「レインは?」
「え?」
「今日は休めたか?ずっとリッカを抱っこしてて飯食えてないんじゃないか?」

 あまりにも自然に、ごく当たり前のように、デンジ君はそう問いかけた。
 どうしてわかったのだろう。連絡だって一言『リッカが熱を出したから病院に連れて行ってくるわね』と送っただけだったのに。熱で機嫌が良くないリッカを朝からずっと抱っこして、食事はもちろんトイレにも満足に行けなくて、料理も掃除も洗濯も何も出来なかったなんて、どうしてわかってくれるのだろう。
 驚いて固まっていると「わかるよ。レインのことだからな」と柔らかい笑顔を見せられて、視界が微かに滲んでしまった。波導を感じるわけでもないのに、私のことを理解してくれるデンジ君が、本当に尊く感じる。

「オレがリッカを抱いてるからさ、その間に飯食って風呂に浸かってこいよ。惣菜を買ってきたから飯のことは考えなくていいから」
「……ありがとう、デンジ君……私、孤児院で働いていた頃は小さい子の病気なんて珍しくなかったのに、リッカが産まれて初めての熱だから心配で、何も出来なかったの。抱っこしておかないと眠れないみたいだし」
「だろうな。明日が休みでよかった。明日まで熱が続いたら一緒に看てやろうな」
「……うん」

 少しだけ闇に飲み込まれそうになっていた。リッカが産まれたばかりのときみたいに。小さな体で大人でさえも辛いくらいの高熱と戦っているリッカを抱いて、狭い部屋にふたり取り残されて。この子を生かさなきゃ、この子を守れるのは私だけなんだからという気持ちに囚われて、自分のことはおざなりにして、息を吸うことさえ上手く出来ないような気がして。でもやっと、今日初めて深く息を吐いて笑えた気がするのだ。
 変わってあげることは出来ないけれど、少しでも辛さが和らぎますようにと、指先から波導を送る。柔らかな波導が触れた瞬間、リッカが微かに微笑んだ気がするのは私の都合の良い解釈かも知れないけれど。デンジ君の腕に抱かれたリッカも、明日は元気に笑えますように。そして一緒に、外の空気を思い切り吸い込み、深く息をしてみたい。





2020.10.27


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