小さなキミと大きな世界



 リッカを産んでからというもの、レインは身動きが取りやすい格好をすることが増えた。立ったりしゃがんだりすることが多いし、リッカを抱っこしなければいけないからヒールのある靴もはけない。服だって、器官が未熟なリッカの吐き戻しで汚されることも多いから、ラフで安いものを着ていたほうが汚された時のダメージが少ないと言っていた。
 それが今日は、久しぶりに前開きじゃないワンピースを着て、少しヒールのある靴をはいて、自分の荷物だけが入った小さいバッグを持って、化粧をして、玄関に立っている。

「じゃあ、行ってくるけど大丈夫?」
「ああ。リッカは腹いっぱいになって寝てるし、家の心配はいらないから久しぶりにのんびりしてこいよ」
「ありがとう、デンジ君。ミカンちゃんとのランチを終えたらすぐに帰るけど、何かあったら連絡してね。リオル、行きましょう」
『行ってきまーす』

 リオルを腕に抱いて「行ってきます」と言ったレインは、どこかワクワクしているようにも見えた。小さな冒険に出掛ける子供のような、キラキラした目をしていたのだ。
 レインにとってリッカは何よりも愛おしい存在だ。それは、オレ自身もよくわかっている。それでも、24時間毎日一緒にいると気は休まらない。リッカが新生児の頃と比べて、最近はレインの様子も安定してきたが、疲れがたまりすぎるとまた情緒不安定にならないとも限らない。
 だから、オレに出来ることは1時間や2時間だけでも時間を作ってやることくらいだ。子育てから離れて、リフレッシュする。そうすれば、リッカの存在もより一層、愛しくなるに違いないのだ。

「……さあ。オレとリッカの二人だけ、か」

 閉まったドアを前にして、ボソリと呟く。オレとリッカが完全に二人きりになるのは、これが初めてかもしれない。
 突然泣き出したらどうする?もしリッカの具合が悪くなったら?様々なケースを考え、緊張しないといえば嘘になるが、最近は機嫌よく起きている時間も増えてきたし、腹さえ満たされていればきっと、なんとかなるだろうと思うことにする。

「ま、正確にはポケモン達もいるし、何かあっても大丈夫だな、うん」
「ライライッ!」
「ん?どうしたんだ、ライチュウ?」
「ラーイッ」
「うわ、ちょっと待て、引っ張るなよ。いったいどうしたんだ!?」

 服の袖を引っ張るライチュウは、オレをリビングへと連れ戻そうとしているようだ。そこでは、リッカが昼寝をしているはずだ。あまり声を上げると起きてしまうので注意をしようとしたが、リビングに入って飛び込んできた光景を見たオレはライチュウ以上の大声を上げてしまう。

「リッカ!?」

 フローリングの上に敷かれた昼寝布団の上で仰向けに寝ていたはずのリッカは、顔を突っ伏してウンウン唸っていたのだ。慌てて抱き起こすと、リッカの顔はヨダレまみれになっていた。

「あーっ!!」
「よしよし、ビックリしたな。首はほぼ座ったといえ一人でうつ伏せは……」

 顔をガーゼで拭いてやりながら、そこまで言い終えて違和感に気付く。「うつ伏せ」と、確かにオレは言った。リッカが顔を布団に埋めた状態でもがいていたのだから、それは確かだ。

「うつ伏せ……?」

 しかし、リッカは一人でうつ伏せが出来ないはずだ。毎日腹這いの練習はさせているし、だいぶ頭をしっかり持ち上げられるようになってきたが、自分で仰向けからうつ伏せに持っていけたところを、少なくともオレは見たことがない。
 半信半疑のまま、リッカを布団の上におろす。もちろん、仰向けの状態で、だ。すると、リッカは勢いよく体を右に捻らせた。

「まさか、一人で寝返り出来たのか……?」
「アーッ!」
「頑張れ、頑張れリッカ……!」

 体を捻らせた状態で一分近くもがくも、途中で力尽きたリッカはころんと仰向けに戻ってしまった。いっちょ前に悔しいという感情があるのか、顔をシワシワにさせている。

「あー、惜しい!」
「チュウッ」
「ほら、リッカ。ライチュウが手本を見せてくれてるぞ」

 リッカの隣に寝転んだライチュウは、ゆっくりと体をくねらさてうつ伏せになってみせた。短い手足とまんまるな腹。リッカと似た体型だからこそ、いい見本になるのかもしれない。そんなこと、本人に言ったら電撃を喰らわせられそうなので黙ってはいるが。
 オレとライチュウが見守る中、リッカはもう一度体を捻らせる。頭を反らせるばかりじゃなくて持ち上げ、体の下敷きになっている腕さえ抜ければ寝返りできるのだが、それだけのことすら産まれて4ヶ月少しのリッカにとっては難しいのだ。

「そう、それから最後に手を体の下から抜けられたら……」

 たまたま、かもしれない。次に同じことをやれと言っても、しばらくは出来ないかもしれない。
 しかし、今、リッカは体を捻り、頭を持ち上げ、手を前に出し、首をぐんと伸ばしてみせたのだ。その瞳の輝きと笑顔を見ると「出来た」ことへの嬉しさがひしひしと伝わってくる。
 ただ横になっているだけだったリッカの世界は、こうしてまた一つ広がったのだ。その瞬間に立ち会えたことが、こんなにも嬉しいなんて。

「出来た!出来たなリッカ!すごいぞ!」
「きゃぁ!」
「ラーイチュ!」
「はっ、寝返り記念日の動画を撮っておかないとな。リッカ、もう一回頼むよ」

 抱きしめていた小さな体をもう一度横にする。いつまた寝返りしてもいいように、すぐさまスマホを構えてオレ自身も腹這いになった。
 しかし、リッカは動こうとしない。右手の親指をくわえてチュッチュと音を立てて吸っている。

「どうした?レインに見せてやりたいんだ。頼むよ」
「あ〜」
「ほら、ライチュウも一緒にやってくれてるぞ。こうだ、こう」
「あーっ!」
「うわ、怒るなよって吐いた!?」

 尻を押して寝返りを促したが、リッカはどうもそんな気分ではなかったらしく金切り声を上げられた。そして同時に、口からゴボリと白い液体を吐き出したのだ。そうだった。今リッカは腹いっぱいの状態だったのに、寝返りして腹部が圧迫されたら吐き戻すのも当然じゃないか。

「リッカ、動くなよ?いいな?吐いたやつ触るなよ?オレがタオルをとってくるまで」
「あ〜」
「だから!頼むから動かないでくれ!」
「ラ〜イ」
「あぁ〜っ!!」
「うわ、その汚れた手で目を擦るなって!そうだよな、元々寝てたんだから眠いよな。着替えたら抱っこしてやるからちょっと待ってろ」

 まったく、騒がしいことこの上ない。「リッカはいい子にしてたし、このくらいの時間なら二人だけでもなんてことなかったぞ」と、涼し気な顔でレインに報告したかったのに、着替えたリッカと洗濯物を見られたら色々と察されてしまうだろう。
 大変なこともあったけど、それでも、一番に報告しよう。自力で世界を広げられるようになった、リッカの大きな成長を。





2020.9.17


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