最後の恋が始まった


それは、ファイとレンが日本語の勉強をしていたときだった。

学園が春休みの間、来日したてのレンの為に、在日歴3年目を迎えるファイは彼女に日本語を教える約束をした。学園が春休みだからといって、教師には新学期の準備やら部活動の顧問やらの仕事があり、完全に休みになるというわけではない。その中で、職務の空き時間やプライベートな時間を利用して、ファイはレンに日本語を教える時間を設けた。
自分の時間を犠牲にしてまでやることか、と思う者もいるかもしれない。しかし、ファイは根っからの優しい人種……特に女性に対して……であり、それが初めて本気で恋した相手なのだから尚更のこと。レンに日本語を教えると同時に、その距離をぐっと近付けようという作戦である。
実際、この作戦は非常に上手いこと行っていた。今までに培った豊富な女性経験をフル活用して、勉強の場は学園以外にもお洒落なカフェを選んだり、日本文化を知る為だと観光という名のデートにこぎ着けたりもした。
社交的で人見知りをしない二人だ、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。すでに上司と部下という関係以上に仲良くなってはいたが、ファイとしてはさらに距離を縮めたい思いでいっぱいだった。
隣を歩くときにさり気なく手を握ってみたり、カフェのソファー席で隣に座ったときに背中に手を回してみたり、様々なことを実行してみたがレンの反応はいまいちだった。顔を赤らめたりと意識はしてくれているらしいが、それ以上のアクションを返してくれない。
どうしたものか、とファイは首を傾げた。今までの経験で行くと、こういった行動と共ににっこり微笑めば相手はイチコロだったはずである。いつもならとっくにペースを自分のものにしているはずが、今回はどうも難しい。
同僚である黒鋼に相談してみれば「ようやく本気になったと思えば、ざまぁねぇな」と鼻で笑われたので、牛乳が飲めないことを入学式で暴露するぞと笑顔で脅してみた。すると「悪い雰囲気じゃねぇんだろ?それなら今はもう少し様子を見てみろ」と苦し紛れの助言をもらったので、藁にも縋りつく思いのファイはとりあえず今まで通りの態度でレンに接することにした。

そして、冒頭に戻る。それは、ファイとレンが日本語の勉強をしていたときだった。ファイが新学期の準備をしていたということもあり、その日の勉強場所は学園の図書館だった。
春休みということもあり人が少なく、二人がいる階には他に誰もいない。和英辞典や英和辞典、あとは日本語の大人向けの絵本などを本棚から持ち出し、窓際の日当たりが良い席に陣取る。
カウンター席のように二人並んで座り、ファイはレンが読み上げる物語に耳を傾けた。間違っている箇所や読めなかった文字などはすぐに指摘し、辞書を引いて確認させたと同時に、ノートに書かせることによって覚えさせようともした。
レンが『恋』という文字を丸っこい字で描く様子をぼんやり眺めていたファイは、自らもシャープペンシルを執って彼女の『恋』の隣にペンを走らせた。

「あ、違う違う。書き順はー、こう」
「……こ、う?」
「そうそうー。文字は基本、上から下に、それと左から右に書くんだけどねー。この三画目はこれー」
「そう、なん、ですね」

顔を上げてにこりと笑ったレンは、次の瞬間パチリと目を開いて首を傾げた。その視線は、真っ直ぐファイへと向けられている。

「あ、ファイさん」
「んー?」
「まつげ、とれてます」

ここ、とレンは自分の左頬骨あたりを指さした。それに倣い、ファイは自分の右頬骨に手を伸ばして数回パッパッと軽く払ってみた。

「とれたー?」
「いえ、ちょっと、しつれい、します」
「!」

レンの顔が、ファイの目の前までグッと迫った。互いの息や、瞬きの音が聞こえてしまいそうなほど、近い。そんな状態で、レンはファイの頬に触れた。

「ん……とれない」
「……」
「ひっかいたら、ごめんなさい。いたかったら、いってくださいね」
「……んー」

綺麗に整えた爪の先を使い、ファイの頬についた睫毛をとろうとレンは意識を集中させた。逆に、ファイはどぎまぎを悟られないようにと努めるのに必死だった。
今までレンとこんなにも接近したことがあっただろうか、否、ない。しかも、彼女の方からだ。
視線のやり場に困り目を伏せようとすると、微かに見え隠れする胸元が視界に入りそれはそれで落ち着かない。かといって、真っ直ぐにレンの顔を見ることも、出来るはずがない。
ファイがこういった心境になると確信していての行動だろうか。だとしたら、もしかしたらレンは自分以上の経験を積んでいるのだろうか、とファイは一瞬だけ不安になった。

「とれましたよ」
「あ。ありがとー」
「You're welcome!どう、いたしまして!」

「つかいかた、あってますよね?」と、レンは相変わらずにこにこ笑っている。
嗚呼、とファイは盛大に溜息を吐いた。こんなにあどけなく笑う彼女が、確信犯な訳がないではないか。
だとしたら、無意識での行動ということになる。それはそれで厄介だ。天然以上に質が悪いものはない。

「はぁ」
「え?」
「なにー?今の。レンレンって確信犯?」
「え?え?」
「素でやってるのー?なおさらタチ悪いなぁ」
「ファイさん?」
「まったく……」

ファイは、赤くなった頬を隠すように口元を押さえ、視線を逸らした。困惑すること数秒後、二人の距離間の近さに気がついたレンは顔を真っ赤にしてフルフルと首を振った。
やはり無自覚だったのかと苦笑しつつ、アワアワと慌てふためく彼女を見て、思う。自分がペースを握れなくても、たまにはこうして相手のペースに捕まる恋愛も良いかもしれない、と。それがきっと、自分が本気で相手に惹かれている証なのだから。

日当たりの良い暖かい窓際に座る二人の間で、二つ分の『恋』という文字が惹かれ合う、春の午後の出来事だった。





──END──

- ナノ -