雨が運んだ夢現


雨音が校舎内まで聞こえてくる。日本特有の季節である梅雨を経験するのは初めてだったけど、日本人が嘆くほど悪い季節ではないと思った。
確かに、ジメジメとした湿気には参るし、たまには晴れ間が欲しいと思うけれど、雨は決して嫌いではない。むしろ、一人で雨音を聞いていると、自然と心が落ち着くものだ。

ロッカールームで靴を履き替え、職員玄関から外に出た。角状の屋根が広がっているそこに、雨に滲んだ梅雨色から浮き出るような、鮮やかな桃色が揺れていた。
上から視線を下げていく。桃色の髪は左サイドで結ばれていて、白いジャケットから見えるストライプシャツの下には、黒いスティックパンツがすっと伸び、黒いエナメルパンプスのヒールが見えた。
雨が振り込まないギリギリの所に立ち、灰色の空を恨めしそうに見上げるイリスさんに近づき、声をかける。

「イリスさん。どうしたの?」
「ユゥイさん。見ての通り、デス」

イリスさんは、ベージュに近いピンク色のエナメルバッグを肩に掛けて自分の両手を広げてみせた。彼女の両手は空、曇天から降るのは雨。予想がつくことはただ一つだ。

「傘、忘れたの?」
「ハイ。予報じゃ、一日、快晴だって言ってましたし」
「確かにね。でも、今は梅雨らしいし、傘は常に持ち歩かないと。今日は車で来なかったんだ?」
「朝は天気が良かったから、歩いてきたんデス」

そう言いながら、イリスさんはバッグから一つの携帯を取り出した。
彼女は携帯を3つ持っていると聞いたことがある。シャンパンゴールドがプライベート用、ホワイトが仕事用、もう一つブラックがあるのだが……それは何用かあまり話したくはない。
それはさておき、今彼女が取り出したのはホワイトの携帯だった。それには傷一つなく、ストラップなどは付いていない。

「どうするの?」
「誰かに、迎えに来てもらおうと、思って」
「え?」
「まずは、星史郎さんに連絡……」
「!」

そんなこと、させる訳ないじゃないか。他の男の、しかも星史郎先生の車に好きな女性を乗せるなんて、どうぞ差し上げますと言っているようなものだ。
ボクは、自分が持っていた傘をイリスさんの目の前に差し出した。

「入っていきなよ。どうせ帰る方向は同じだし」
「ソレ、折りたたみ傘じゃ、ないデスか。二人も、入りまセンよ」
「いいから」

有無を言わさず、細い肩を強引に抱いて自分へと寄せた。バッグを肩から提げて、その手で傘を差し、彼女の方へ寄せる。
薄紅の視線はボクの肩に注がれていた。

「ユゥイさん、肩、濡れてマス。バッグも。風邪でも引いたら」
「大丈夫。ボク、こう見えて体は丈夫なんだよ」
「……有り難うございマス」

ナチュラルなベージュの口紅が乗った唇が、ふわりと弧を描いた。貴重なイリスさんの微笑を見られただけで、右肩がぐっしょり濡れる代償は払われたようなものだ。
内心、小さくガッツポーズを作りつつ、ヒールを履いた彼女を気遣いながら、ゆっくりと帰路についた。







そして、雨の中を二人で歩いて帰ったその翌日のこと。せっかくの休日だというのに、ボクは不機嫌なイリスさんに見下ろされていた。
今日も、外は雨だ。

「だから、言ったのに」

棘がある物言いに、言い返す術はなかった。ボクが差し出した体温計を見て、細い眉の眉間にはさらに深いしわが刻まれた。
37度8分。決して低くはない体温だ。

「体、丈夫なんじゃ、なかったんデスか?」
「あはは。そのつもりだったんだけどね」
「まったく」
「文句を言いながらも、こうして看病しに来てくれたんだ」
「自分のせいで、病気になった人を、放っておくほど、無責任じゃありまセン……ハイ」

一人前サイズの土鍋が目の前に差し出された。蓋を開けてみると、ほっこりとした蒸気が一瞬だけ視界を真っ白に覆った。
土鍋の中身はほかほかの卵粥だった。イリスさんにしては珍しく、エコバッグでボクの部屋まで来たと思っていたけど、これが入っていたからなんだ。
さらに、彼女はエコバッグの中からタッパーを取り出して、そこに入っている梅干しを崩しながらボクに話しかけてきた。

「梅干し、食べられマスか?」
「うん」
「お粥の中に、入れマスね。風邪で、口の中がおかしいトキでも、さっぱりして、食べられるんデスって」
「これ……イリスさんが……」
「まさか」
「え?」
「レンに頼んで、作ってもらったのを、持ってきマシた」
「……」

ボクの感動を返せ。口に出しては言えるはずもないので、内心で呟くに留めた。
噂では、イリスさんの料理の腕は凄まじいと聞く。しかし、ボクはそれを目の当たりにしたことがないので、未だに真実味がない。
実は今日、インターホン越しに彼女の姿を見たときから、手料理を作ってくれないかと密かに期待していたりしたのだが。
でも、ボクの為にわざわざこうして、粥を作ってくれとレンさんに頼んで持ってきてくれたんだ。それだけで、良しとしよう。最近のボクはどうもプラス思考みたいだ。

「ハイ。混ぜました。これ食べて、お薬を……」
「あーん」
「冗談を言う、元気があるなら、看病は、いりませんネ」
「……」

言い返す言葉もなかったボクは、大人しく土鍋を受け取って自分で粥を口に運んだ。美味しいけれど、心なしか涙の味がするのは何でだろう。気持ちの問題だと言うことにしておこう。しかし、少しくらい夢を持たせてくれても良いじゃないか。恋人同士じゃなくても、あーんは男のロマンなのに。
ダメだ。食事して体が温まってきたせいか、頭がグルグルしてきた。

土鍋をサイドテーブルに置くと、ボクはベッドに横になった。体中に汗が滲んでいるのが自分でも分かる。髪が額や首に張り付いて気持ち悪い。
イリスさんは、暖かいタオルでボクの顔から首にかけてを拭いてくれた。

「すごい汗」
「ん……なんか、くらくらする」

イリスさんの指が前髪をかき分けて、額に掌を押し当てた。その手は首筋に移動し、大きく脈が打つその場所で止まった。
薄紅が、少しだけ、心配そうに瞬いた。

「ごめんなサイ。ワタシを、濡れないように、してくれたカラ」
「そのことは本当に気にしないでよ。半分はボクが強引に傘に入れたんだし」
「それは、そう、ですケド」
「星史郎先生の車で帰らせたら、また何があるかわかったものじゃないし。ボクが風邪を引く方が安いからね」

その言葉に返事はなかった。イリスさんは、複雑そうにクスリと笑っただけだった。
首筋にある彼女の手を取って、軽く引いた。その意図を、彼女は一瞬にして理解した。
彼女は長い髪が邪魔にならないように片方に寄せて、さらに身を屈め、ボクの唇にゆっくりと自分のそれを落とした。嗚呼、もう、本当に、これだけでも風邪を引いた価値はあったものだ。
しかし、彼女はいったん唇を離すと、ボクへとのしかかるように深いキスを落としてきたのだ。
口の中が熱くて、クラクラする。

「イリス、さん」
「汗をかくと、熱が下がるって、よく、言いマスよね」

先ほどのシリアスな表情はどこへやら。イリスさんは、いつものように妖艶に笑んだ。
男であれば、きっと誰一人としてその瞳の艶に抗えない。

喉がカラカラと渇く。ベッドが生々しく軋んだ。彼女はまたふっと笑むと、ゆっくりとボクの上から退いた。

「なんて、冗談」
「え?少し期待したんだけど」
「病人が、なに、言ってるんデスか」
「イリスさんが上になってくれれば万事解決だけど」
「ハイハイ。治ってから、ね。しばらく眠ってくだサイ」

イリスさんは空になった土鍋を持って、キッチンへ向かった。なんだか良いように弄ばれた気がする。男のプライドもなにもあったものじゃない。
半分ふてくされて布団に潜り込んだ。薬が効いてきたのか、すぐに意識が遠のいていった。
現実から意識が消える消える刹那「Sweet dreams」と聞こえてきて、額にマシュマロのような柔らかい感触があった。目を開けてイリスさんがどんな表情をしているのか確かめたかったけれど、瞼が重くて開かなくて、悔しい。
それでも、夢の中で今日のように優しい彼女に逢える気がした。





──END──

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