氷点下の歌姫


──音楽室──

生徒達の楽しそうな談笑が絶えることのない、昼休みのこと。食事を終えたユゥイは、校内をぐるりと散策していた。普段は調理実習室がある1階しか出歩かないので、たまには他の階に足を伸ばしてみようと考えたのだ。
すれ違う生徒達に「こんにちは」と挨拶を返しながら、また一つ階段を上がっていく。

なにやら音楽が聞こえてきたのはその時だった。そういえば、ここは音楽室の近くだったことを思い出す。
防音設備が施されているそこは、一般の教室よりも少し離れた場所に位置していて、教室の周りはしんと静まり、ユゥイ以外誰もいなかった。音が外まで漏れていた理由は、扉が閉まりきっておらず若干開いたままだったからのようだ。

アコースティックギターの音色1本に乗せた英語の歌は、誰もが知っているほど有名な曲だった。ここまで楽器を弾けて、ここまで正しい音程で唄えて、なおかつこんなに美しい英語を発音出来る人物といえば、この学園で連想するのはただ一人。
しかし、ユゥイは首を傾げた。

(レン先生……じゃ、ない)

今唄っている人物は、レンのソプラノよりも、若干低いアルトの持ち主だと、ピアノをしていたユゥイは分析した。
そっと、ドアを押し開ける。
太陽の光が燦々と降り注ぐ音楽室で、椅子に腰掛けてアコギを弾いていたのは、イリスだった。蝶が蜘蛛の糸に囚われたように、ユゥイはその場から動くことが出来ず、ただその歌声に聴き惚れていた。

「サイモン&ガーファンクルの『Bridge Over Troubled Water』?」

弾き語りが終わると同時に、そう呟いた。イリスははっと顔を上げて、いつの間にか音楽室にいたユゥイに若干眉をひそめて見せた。

「ユゥイ、先生」
「日本では『明日に架ける橋』っていうんだよね。すごいね。ギター弾けたんだ」
「聴いてたんデスか?」
「少しドアが開いてたから音が外に漏れてたよ」
「もう……レン」

おそらくさっきまでこの場にいたであろう双子の姉に向けて、溜息混じりに呟いた。よく見れば、イリスが座る隣の椅子に誰かが座っていた形跡があった。ユゥイはそこに腰掛けながら、イリスに話しかけた。

「前にレン先生から聞いたことがあるなぁ」
「なにをデスか?」
「イリス先生は本当に何でも出来るんだって。勉強もスポーツも、教えたらそれこそ何でも出来るようになるって」
「……」
「唯一出来ないのが料理って聞いてたけど」
「食べるコトに、アマリ執着がないカラ。味も、美味しいとかよくわからないし」

あまりの率直な物言いに、思わず苦笑する。
イリスはいつもそうだ。自分の意見ははっきり言うし、ポーカーフェイスを滅多に崩さない。だからこそ、他人からは冷たいと思われがちなのだ。
しかし、ユゥイは知っている。そんな彼女でも、花のように笑むときがあることを。

「デモ、ユゥイ先生の料理は、スキ。アナタの気持ち、伝わってくるカラ」

そう、この笑顔に、ユゥイは心を奪われたのだから。
しかし、その笑顔は再び無表情の下に隠れてしまう。

「ダカラ、ワタシ、料理もだけど、音楽や絵もニガテ」
「え?でも、教師も参加の写生大会でイリス先生絵すごく綺麗だったし、今だって歌もギターもすごく……」
「デモ、何も感じなかった、でしょう?」
「……イリス先生?」
「レンから言われたコトありマス。どんなに上手く歌えても、間違わずに演奏出来ても、聴くヒトに伝わるものがなければ、それは音楽じゃないって」


音楽は、紡ぐ者の心を反映させる。だから、感情豊かなレンの歌は、楽しいものや、悲しいものや、穏やかなものなど様々な表情を見せるのだ。
逆に、表面的にも内面的にも、どこか冷めていて感情というものをうまく表すことが出来ない自分。イリスは、上手く唄えはするものの、そこに感情を込める術を知らないから、彼女の音楽は不完全なままなのだ。

「ワタシ、こんな性格だから、感情を込めた歌い方とか、わからナイ。演奏で、何も伝えられナイ」
「でも、そんなこと、これからの君次第でいくらでも変わってくるでしょう」
「そう、デス、か?」
「そうだよ。例えば……君に好きな人が出来たとして、その人を思い浮かべながら唄う恋の歌は、きっととても素敵だと思うなぁ」
「……」

ユゥイの言葉を受けた後、しばらく考え込んだイリスは、再びアコギを抱え直した。華奢な指先が弦を弾き、新たな音が生まれる。
英語のスタンダードナンバー『Fly me to the moon』。
レンまでとは行かない。しかし、先ほどとは違い、確かに今のイリスの歌声には僅かながら『想い』が宿っていた。

(……もう、君の頭の中には、誰かがいるのかな)

誰かを思い浮かべながら唄ってみればいい、と。自分で言ったことなのに、取り消してしまいたい衝動に駆られた。
弾き終わったイリスに、ユゥイは「誰を思い浮かべたの?」と問いかけたが、彼女は戸惑うように眉を寄せただけで、その問いに答えることはなかった。





──END──

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