堀鐔学園の教室配置を覚えるがてら、校内を見学していたときのことだった。
美術室の中で、春を見つけた。
「サクラの花……?」
キャンバスに描かれていたのは、おそらくこの学園にある桜並木だ。この角度から察するに、正門を入ってすぐ脇に見える景色を描いたものだと思われる。キャンバスいっぱいに描かれた桜は見事なまでの桃色で、しかし一枚一枚の花弁が濃い桃色だったり薄い桃色だったりと、丁寧に細部まで色づけされて塗り分けられている。
まるでキャンバスから飛び出してはらはらと舞い踊り出しそうなそれに、イリスは思わず見惚れた。
「キレイ……」
「あ……有り難うございます」
美術室の入り口から声が聞こえて振り返った。柔らかそうなチョコレートブラウンの髪と、綺麗な二重をしたアッシュブルーの目が印象的な、物静かな雰囲気を受ける女性だ。
イリスは彼女に見覚えがあった。就任前に配られた教師一覧名簿の中にあった、顔写真の横に記載されていた名前を脳の引き出しから捜し当てる。
「美術教師の、ありす、先生」
「はい。新しく赴任してこられた、英語教師のイリス先生……ですよね?初めまして」
ありすは控えめに微笑んで、軽く会釈した。イリスもまたそれに倣う。
微笑みをはにかみに変えて、ありすも桜の絵を見つめた。
「……なんだか、自分の作品をこう、まじまじと見られると恥ずかしいですね」
「やっぱり、この絵は、アナタが?」
「ええ。春に咲いた、桜のあまりの美しさに、筆をとらずにはいられなかったんです。でも、勢いで描いてしまったし、画材もあまり良いものではなくて」
「でも、このサクラ、まるで、本当に咲いているみたいデス。ハナビラが、今にも、飛び出してきそう。ありす先生から、見える世界は、こういう風に、映るんデスね……本当に、キレイ」
「……有り難うございます」
ぽっと頬を桜色に染めるありすを見下ろして、イリスも自然と笑顔を浮かべた。
芸術家は作品に人柄が現れるとよく言うが、彼女とその作品を見ていると全くその通りだと深く頷ける。この桜の花も、そしてありす自身も、まるで優しさが咲いたような、そんな柔らかく暖かい雰囲気を漂わせている。傍にいる者の心が癒されるような、素朴な美しさだ。
吸い込まれるように絵を凝視し続けるイリスに、ありすは隣から控えめに話しかけた。
「あの、もしよろしかったら、この絵、差し上げます」
「え?」
「あっ……すみません。おこがましいことを言って」
「いえ、そうでは、なくて。いいのデスか?ワタシが、いただいても」
「はい!イリス先生が気に入ってくださったのなら」
「有り難うございマス」
ふわり、心からの笑みでイリスは笑った。
「おいくらデスか?」
え、とありすは目をパチリとさせたあと、言葉の意味を理解すると、わなわなと首を左右に振った。
「勢いで描いたものですし、値段なんて付けられません」
「でも、画材代や……なにより、これだけの、魅力がある、絵に、価値がつかないのは」
「いえ、本当に結構ですから。イリス先生に気に入っていただけただけで十分です」
どうやら、頑としてお代を受け取らないつもりらしい。さてどうするか、とイリスは絵とありすを交互に見つめる。
イリスの気持ちは本物だった。美術館に展示されていてもおかしくないこの作品を、ただでいただくのは忍びない。
「それなら、今週末、空いていマスか?」
「?はい」
「お食事、くらい、ごちそうさせてくだサイ。そして、もっと、絵のコトや、この学園のコト、ありす先生のコト、教えていただけたら、嬉しいデス」
「!……それなら、喜んで!」
ふわりと花が咲いたように笑うありすにつられて、イリスもまた微笑んだ。
この短時間で何回も、自分が心から笑えるなんて珍しいことだとイリスは気付いている。社交辞令ではなく本心からの言葉と笑顔だった。人を自然と笑顔にさせてしまう彼女と、もっと親しくなりたいと思ったのだ。
こうして、一枚の絵が繋いだ友情は、春の訪れと共に幕を開けた。
──END──