3.バレンタインデーにドッキドキ!


──廊下──

レ「あ!ちょうどいい所に!」
ひ「小狼君」
小「あっ。九軒さんにレン先生」

中庭からB組に戻る途中、小狼は二人の女性から引き留められた。一人は、ふわふわの長い髪を持つ少女──九軒ひまわり。もう一人は先ほど話題に上がった、淡い桃色の長い髪に薄紅色の瞳を持つ女教師──レン先生だった。

ひ「今日の日直、小狼君だよね?これ」
レ「黒鋼先生から、預かったんだって」
ひ「ホームルーム前に、黒板に張っておいて下さいって」
小「有り難う」

黒鋼先生は体育教師であると同時に、小狼達のクラスであるC組の担任でもあるのだ。小狼はひまわりから書類を受け取ると、微かに笑ってみせた。が、上手く笑えなかったらしい。レン先生は資料を腕に抱き、首を傾げた。

レ「小狼君、体調悪い?」
小「え?」
ひ「どうしたの?元気ないね」
小「えっ……そうかな」
ひ「っていうか、難しい顔?」
レ「眉間に皺、寄ってるかも」
小「そんなに……顔に出てますか……」
レ「うん」
ひ「出てる」
小「……そうかですか」

レン先生だけでなくひまわりにまで見抜かれ、小狼は眉間の皺をさらに深めた。本来、彼は隠し事が苦手なのだ。それは、真面目で素直な性格が所以する。

ひ「聞いても大丈夫?」
レ「私達に相談出来る事なら、話してみて」
小「……はい」

B組とC組は隣のクラス同士だから、立ち話をする必要もない。3人はそれぞれのクラスに向かいながら、語り合う事にした。勿論、バレンタインデーの事について、だ。

小「さっき、黒鋼先生にバレンタインデーの事を聞いたんです」
ひ「ああ!明日だもんね」
小「なんだか……大変な事みたいで」
レ「そりゃあね。一大イベントだし」
ひ「女の子にとっては、大変ですもんね」
小「や……やっぱりそうなんですか」
ひ「その日に命懸けちゃう子もいるから」
小「い、命!?」
ひ「女の子はね」
小「………」

女の子が命を懸ける日……あながち間違ってはいない。間違ってはいない、が。それはさらなる誤解を招く言い回しだと、天然のひまわりが気付く訳がない。
さらに、レン先生までもが追い打ちをかける。

レ「私も、頑張ってファイ先生を守らなきゃ!」
小「ファイ先生を守る!?」
レ「あれ?私達が付き合ってる事、知らない?最近はみんな知ってるから、私も開き直って隠してないんだけど」
小「いえ。それはさっき、ファイ先生から聞いたんですけど……」
ひ「お二人が付き合って、初めてのバレンタインですよね。確か」
レ「そうなの!チョコレートの魔の手から守らなきゃ!」
小「……」

愛しい人を他のチョコレートから守る……そう、これも間違ってはいない。間違ってはいない、のだが。小狼の眉間の皺はさらに深まり、顔色も心なしか青ざめる始末だ。
レン先生はひまわりのように天然という訳でもないのだが、小狼も勿論バレンタインデーを知っているとばかり思っているだろう。小狼が誤解を抱いているなど、気付くはずもなかった。

ひ「小狼君も、きっと沢山貰うね」
小「えっ?」
ひ「チョコレート」

その時、5限目の授業を開始する事を告げるチャイム音が、廊下の天井にあるスピーカーから聞こえてきた。廊下で話していた生徒達も、慌ただしく自分の教室へと戻っていく。
慌てるのは生徒だけじゃない。レン先生も腕時計に目をやると、胸に抱く資料を抱え直した。

ひ「あっ。遅刻しちゃう」
レ「私も楽譜、早く運ばなきゃ。始まっちゃう」
ひ「じゃあ」
レ「遅れないようにね、二人とも」
小「は……はい」
レ「よしっ!近道っと!」

ひまわりは隣のC組に入っていき、レン先生は脱兎の如く廊下を駆け抜け、窓を飛び越えて外の非常階段を駆け上がっていった。またしても先生がこんなだから、廊下は走るなとおちおち生徒に説教も出来ない。しかし、その事態をつっこむ暇も小狼にはなかった。

小「陰謀で……魔の手から守る……命がけのチョコレート……」

ひまわりもレン先生も、黒鋼先生と同様に間違った事は言っていない。しかし、誤解を招いてしまった事にも気付いていない。
小狼の頭の中では、バレンタインデー=チョコレート=陰謀=守る=命がけ、というさらに複雑な等式が成り立っていた。







──B組──

小狼が教室に戻って、窓側の自分の席に着くと、隣の席の百目鬼が話しかけてきた。

百「さっきは悪かったな。四月一日、連れ出しちまって」
小「いや……気になってた事は聞けたし」
百「にしては、さっきより顔色が悪いな」

小狼の顔は青白く生気がない。まるで病人のようだった。こんなにも深刻に悩んでいる事を、誤解を招く原因となったファイ先生は知る由もないだろう。

小「……さっき、気になってるって言った2月14日の事を、ファイ先生と黒鋼先生と、レン先生と九軒さんに聞いたんだ」
侑「って事は、バレンタインデーね」
小「うわあっ!!」

突然の第三者の登場で、小狼は心底驚いたようで、椅子から滑り落ち床に頭をぶつけてしまった。小狼が痛そうに頭をさする背後では、その原因である眼鏡をかけた女教師──侑子先生が、楽しそうに窓から顔を覗かせていた。

小「いって……侑子先生」

百目鬼に引っ張ってもらい、小狼は後頭部をさすりつつ体を起こした。倒れた椅子を直しつつ、百目鬼は溜息を吐く。

百「次、隣のクラスで古典の授業でしょう」
侑「いいのよ、待たせておけば。っ……しょっと」

ファイ先生やレン先生と同様に、侑子先生も軽やかに窓を飛び越えてB組へと入ってきた。
深くスリットが入ったスーツから、形の良い足がすらりと覗く。教師としてはどうかと思う格好だが、侑子先生の前で常識などは皆無だった。理事長がこれだからレン先生の短いスーツの丈も許されるのか、と小狼は納得した。

百「なんで窓から入ってくるんですか」
侑「近いからよ」
小「ファイ先生といいレン先生といい、この学校の先生は窓から出入りする決まりになってるんですか?」
侑「いいえ。でも、緊急時はやむを得ないと通達を出してあるわね。古典教師兼理事長として」
小「確かに、レン先生は急いでましたけど……」
百「今は緊急時なんですか?」
侑「ええ。バレンタインデー前日に、留学生がバレンタインについてなにやら思案ようなんですもの。超緊急事態よ」
百「はぁ……」
侑「それで、どうしたの?小狼君」
小「あの、授業が……」
侑「それはそれ。これはこれ」
小「でも……」
侑「言いなさい」
小「は……はい」

有無を言わさない凄みをきかせた侑子先生を前にしては、ハイと言う以外に小狼に道はなかった。小狼は朝から今までの出来事を、一つ一つ辿りながら回想する。

小「日本のバレンタインデーが、よく分からなくて……最初にモコナ達に聞いてたんですけど、途中でファイ先生が来て」
百「ああ……」
小「そしたら、ファイ先生が黒鋼先生を呼び止めて。黒鋼先生が、バレンタインデーは陰謀だって。で、その後九軒さんが女の子は命懸けだって。レン先生は、チョコの魔の手から守るって教えてくれて……」
百「あーあ」
小「日本のバレンタインデーは、大変な日なんだなって」

ファイ先生の名が出た時点で、訝しげな表情を見せた百目鬼。さらなる話を聞くうちに、なるほどなと納得して頭を抱えた。
根本的な問題として、聞く相手を間違っている。彼らが真実を教えたのには変わりはないが、相手が真面目な小狼だから間違った方向に解釈が進んでしまったのだ。
暗い影を落とす小狼から、侑子先生へと視線を移してみる。彼女は頷きながらも、口元はにんまりと弧を描いていた。百目鬼が感じた嫌な予感は、的中する事になる。

侑「そうよ。日本では、バレンタインデーは大変な日よ」
小「そ……そうなんですか」
侑「陰謀渦巻く、女子の命を懸けた戦いの日なの」
小「戦い!?でも、戦いにチョコレートは、何の関係があるんですか?」
侑「ある意味、武器ね。それを使って狙い撃ちっていうか……」
小「撃つんですか!?」
侑「炸裂される事もあるわね。手作り攻撃とか」
小「炸裂!?」
侑「愛する人がいる女子は、他の女子の攻撃から愛する人を守らなきゃいけないわ」
小「あ!だからレン先生、ファイ先生を守るって!」

全ての糸が、小狼の頭の中で繋がった。
侑子先生も、間違った事は言っていないのだ。だから、百目鬼も傍観を貫いてなにも語らなかった。
ツッコミとなる人物が不在な今、四月一日が現れれば小狼は救われたかもしれない。しかし、彼がいない今、小狼の中のバレンタインデーはねじ曲げられたままだった。

侑「小狼君も、明日はチョコレートを持った女子の戦いに巻き込まれないように」
小「は……はい……あ。あの」
侑「なあに?」
小「女の子は全員……何ですか?」
侑「参加しない女子もいるけれど、大多数は参戦するわね」
小「じゃあ、さくら……」

その時、ドアをスライドさせる音が響き、またしても絶妙なタイミングで、小狼の言葉が阻まれた。
教室に入ってきたのは、モコナ達を両肩に乗せたファイ先生だ。未だ昼休みのざわつきが残る教室内を見回して、へにゃりと笑う。

フ「化学の時間だよー」
ソ「時間だよー」
ラ「時間だよー」
侑「という訳で、頑張ってねー!」
百「また窓から出て行った……」

百目鬼が窓から外を覗くと、数メートル先で侑子先生が隣のC組に窓から進入している所だった。ここの先生にとって、窓からの出入りと土足は当たり前らしい。百目鬼は溜息をつくと、小狼の隣の自分の席に着いた。
ファイ先生が教卓に立ち、教室内もだいぶん落ち着いた。そのまま授業が始まろうとした、その時。遠くから廊下を走る足音が、だんだん近づいてきた。
息を切らせながら教室に飛び込んできたのは、四月一日だった。

四「すみません!遅れましたー!」
フ「ぎりぎりセーフだよー」
四「良かった……」

ほっとしたように笑った後、四月一日は自分の席へと向かった。彼の席は窓側の、小狼の前の席だ。辿り着くまでに沢山のクラスメイトの視線を浴び、少しだけ恥ずかしそうに頬を染めて席に着いた。

四「ふぅ」
百「遅いぞ」
四「うるせぇ!こっちの担当の打ち合わせが全然まとまらなくて、結局放課後また集まる事に……って、小狼?」
小「……えっ?」

斜め後ろの席の百目鬼に怒鳴りつけた際に、四月一日の視界の隅に青白い顔の小狼が入った。声を聞けば、それまでも生気がない。四月一日は体ごと後ろを振り向いた。

四「なんか、更に顔色悪いぞ?2月14日の事か?」
小「いや……それは分かったんだ。教えて貰ったから」
百「あれは教えたっつーか、歪曲しすぎてるというか……」
四「ん?何だ?」
フ「はぁい、そこー」
百「ん?」

身を寄せ合って話していた小狼達だったが、ファイ先生に指されて我に返った。今は授業中だ。生徒達の視線が三人に集中している。

フ「お喋りはいいんだけどー、ここ試験に出るよー。後で困っちゃうかもー」
四「わわわ!はいっ!」

試験に出る。これほど生徒を真面目にさせる台詞は他にない。四月一日は慌てて前を向き、百目鬼も黒板を写す作業に集中した。
ファイ先生が生徒達に背を向けている事を確認すると、小狼は小声で四月一日の背中に謝った。

小「ごめん」
四「いや。でも、本当に大丈夫か?」
小「うん」

そうは言っても、小狼の不安は消えていなかった。
バレンタインデーについては分かった。しかし、内容が内容だ。チョコレートを作ると言っていた、さくらの緊張した顔が嫌でも浮かんでくる。

小「日本のバレンタインデーって、大変なんだな。さくらさんも、大丈夫なのかな……」

シャープペンを握っていても、彼の手が動く事はない。小狼の頭の中は、今バレンタインデーの事でいっぱいなのだから。ファイ先生の話す気体の状態方程式についての解説も、ただのBGMにしかならなかった。

早春ともいえる陽気なのに、小狼の心は晴れないまま、一日が終わる。





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