5.春休みにドッキドキ!


ユ「彼女との出逢いは1年と半年前くらいだったかな……夏が始まったばかりの、暑い日だった」






ファイが日本で教師になると言って、イタリアを出て3度目の夏。ボクは当時24歳で、イタリアでシェフをしていた。小さな店だったけど割と有名で、評判も良かった。その中で料理長の立場にいたボクは、充実した毎日を過ごしていたんだ。

そんな時、1本の電話がかかってきた。それは、ボクとファイの育ての親──アシュラさんという人からだった。

ユ「お客さん?」
ア『ああ。私の友人の娘さんがアメリカから来てるんだけど、本場のイタリア料理を食べさせてあげたいんだ』
ユ「分かりました。予約を入れておきますね」
ア『よろしく。じゃあ、明日頼むよ』
ユ「はい」

まさかこの電話が、ボクの人生を大きく変える事になるなんて、思ってもみなかった。

翌日、約束の時間ちょうどに、アシュラさんは来店した。普段はウェイターがする事なんだけど、特別なお客様だから、ボクは調理場を抜けて彼を迎えに行った。

ユ「いらっしゃいませ」
ア「久しぶりだね、ユゥイ。もう料理長なんて、出世が早いな」
ユ「いえ、小さい店ですからそんな……」

そこで、気付いたんだ。アシュラさんが言っていた、彼女に。彼女は、アシュラさんの一歩後ろに下がって、じっとこっちを見ていた。

柔らかそうな肩まで伸びた桃色の巻き髪と、薄紅色の知的な瞳。抜けるような白い肌と、瞳と同じ色をした唇。肌とは反対の黒いワンピースが、良く似合っている。
ヒールを履いていたからかもしれないけど、長身のアシュラさんと並んでも、絵になるほどのスタイルで、正直見惚れてしまった。
綺麗だ、と最も簡単だけど彼女の様子を一番表す単語が、頭に浮かんできた。

ボクの視線に気付いたアシュラさんは、自分は一歩横に退いて、彼女を一歩前に進めた。

ア「彼女が私の友人の娘さんだよ。ユゥイより少し年下かな」
ユ「あ、はい……こんにちは。いらっしゃいませ」
?「こんにち、は」
ユ「?」
ア「彼女、イタリア語はまだ勉強中なんだ」
ユ「ああ。なるほど」

一見、完璧に見えた彼女が初めて紡いだ言葉は、片言のイタリア語で。少し、恥ずかしそうにする姿が可愛かった。近寄りがたいと思っていたけど、そうでもなさそうだと安心した。

ユ「あ、席にご案内します」

予約しておいた個室に二人を通して、自分は調理場に戻った。
オードブル、スープ、魚料理、肉料理と順に出していき、途中で一度二人の様子を見に行った。アシュラさんも、そして彼女も、英語でなにやら楽しそうに話していて。
ボクが個室に入ると、彼女は微笑んで英語で話しかけてきてくれた。

ア「とっても美味しいって」
ユ「良かったです。Thank you very much」

ああ、英語を真面目に勉強しておけば良かったな、と後悔する自分がいた。アシュラさんに通訳を任さずに、自分の言葉で、彼女と話せたのに。

一連、フルコースを出し終えると、ボクは最後にデザートを持って二人の元に訪れた。今日のデザートは、結構自信作だったんだ。

ユ「こちら、デザートのイタリアンジェラートです」

ことり、と二人の前に皿を置いた時。彼女の様子が変わった気がした。
どうやらそれは気のせいじゃないらしい。アシュラさんも、困ったような表情を浮かべている。

ユ「あの。何か?」
ア「すまない。彼女は甘いものが苦手で、食べるとアレルギーが出るみたいなんだ」
ユ「え?」
ア「本当に悪いね。事前に言っておけば良かった」
ユ「いえ……仕方ない事ですから。気にしないでくださいね」

申し訳なさそうに、頭を下げる彼女。そういう体質なら仕方ない、けど。女性でデザートを食べられないなんて、少し気の毒に思った。

閉店した後も、考えるのは彼女の事ばかり。ボクは、店内の最終チェックをしながら、一人呟いた。

ユ「食べて欲しかったなぁ……あれ?」

アシュラさんと彼女が座っていた、あの個室。長いテーブルクロスに隠れて光る、何かを見つけた。それは、薄紅色の宝石が埋め込まれた、華奢な十字架のピアスだった。それも、片方だけが、絨毯の上に落ちていた。

ユ「ここって確か、彼女が座っていた……」

おかしいな、アクセサリーはいくつか付けていたみたいだけど、こんなピアスを彼女は付けていなかった気がするんだけど。
とりあえず、ボクはその場でアシュラさんに電話をかけた。呼び出し音が3回、ちょうど良いタイミングでアシュラさんは電話に出た。

ユ「もしもし、ユゥイです」
ア『ユゥイか。今日は本当に有り難う。後から電話しようと思っていたんだけど。忘れ物がなかったかな?』
ユ「はい。その事でお電話しました。十字架のピアスが落ちていたんです。片方しかなくて、女性のものみたいなんですが」
ア『ああ。それだよ。両親から貰ったもので、大切な人と揃いのものだからって、彼女ずっと探してたんだ』
ユ「そうなんですか。見つかって良かったです」
ア『明日私は用事があるんだけど、彼女が一人で店に行くと言ってるんだ。大丈夫かな?』
ユ「はい。明日は定休日なんですけど、裏口を開けておきます」
ア『助かるよ。度々すまないね』
ユ「いいえ。全然」

明るい気持ちで、電話を切った。迷惑どころか、むしろ嬉しかった。もう一度、彼女に逢えるんだ。

ユ「……そうだ」

その夜、ボクはキッチンにこもって、あるものを作った。

そうして、次の日。昼過ぎに、彼女は現れた。
半袖の黒いジャケットに、真っ白なサブリナパンツに、華奢なサンダル。昨日も思ったけど、彼女は割とかっちりした知的なデザインの服が良く似合っている。
店の前で彼女を待っていたボクを見つけて、小走りで走ってくる彼女の姿に、高鳴る鼓動を押さえた。

ユ「こんにちは」
?「こんにち、は。きのうは、ありがとう。すみません、わざわざ」
ユ「いいえ。はい。これですよね?」
?「はい。ありがと、ございマス」

確かにそのピアスを渡すと、彼女は安心したように息を吐いた。それを付けるのかと思いきや、メイクポーチの小さなポケットに、大切そうにしまい込む。
その動作に、違和感を感じたのを覚えてる。お洒落として身につけるのではなく、お守り用なのだろうか?

これで、早くも用件は終わってしまった。でも、まだ別れなくなかった。

ユ「あの」
?「え?」
ユ「少し、お時間ありますか?」
?「はい。あり、マス」
ユ「ちょっと、良いですか?」

首を縦に振る彼女に、安心して笑った。彼女を店内にエスコートして、昨日食事をした個室に通す。
しばらく待ってもらって、ボクは調理場にあるものを取りに行った。昨晩、作り直したデザートだ。それを、テーブルにことりと置くと、彼女困ったようにボクを見上げた。

?「ごめん、なさい。ワタシ……」
ユ「大丈夫。砂糖を使わず甘さを控えてありますから。どうしても……食べて欲しくて」

彼女は少し躊躇ったけど、ゆっくりスプーンを手にとって、アイスをすくった。それを、恐る恐る口に運んでいる。ボクも内心、かなりドキドキしていたんだ。

?「!」
ユ「どう……かな?」
?「すごい……おいしい」

昨日見た微笑みとは違う、本当に幸せそうに笑う、彼女。まるで、その場に花が咲いたようだった。
ほっとした心とは裏腹に、心臓自体はまだ激しく鼓動していた。このドキドキは、緊張からくるものじゃなくて。
彼女に恋をしてしまった、証だった。

店の外まで彼女を送ると、彼女は綺麗にお辞儀した。

?「ほんと、ありがとございマシた。わすれものも、あいすも」
ユ「いいえ。こちらこそ、付き合わせちゃって……あの」
?「ハイ?」
ユ「また……逢えますか?」

一瞬、彼女の表情がぱっと明るくなった、気がしたんだけど。次に、その整えられた眉が、困ったように下がった。

?「ごめん、なさい。ワタシ、きょう、アメリカかえるんデス」
ユ「え……?」
?「アメリカかえって、にほんで、きょうしになる、べんきょう、しマス。イタリアは、きっと、もうこないカラ、あえない」
ユ「……」
?「アナタの、りょうり、すごく、おいしかった。ほんとうに、ありがとう」

背を向けて歩き出す彼女に、声をかける事も出来なかった。日本なんて、遠すぎる。もう、本当に逢えないんだと、思い知った。

こうして、夏の始まりと同時に、ボクの恋は始まって、終わったんだ。






ユ「どうしても、彼女が忘れられなくて……それから、日本語を勉強するようになったり、日本の事を調べたり、日本を意識するようになったんだ。その1年後くらいに、侑子先生から連絡がきて、堀鐔学園の教師にならないかって誘われた。もしかしたら、また彼女に逢えるかもしれない……その思いだけで、店を辞めて日本にきたんだ」

「幸い、ボクも教員免許はとってたし」と、ユゥイ先生は続けた。しかし、と黒鋼先生が低く唸る。

黒「だが、日本で教師になるっつっても、何万と学校はあるんだぞ」
ユ「分かってる。でも、少しでも近付きたかったから。ここまで来て……レン先生を見つけた」

顔を上げたユゥイ先生の瞳が、レン先生を捉えた。彼女は、ユゥイ先生に背を向けて、何か思う事があるように、俯いている。その後ろ姿を、ファイ先生が覆い隠した。

フ「レンは違うよ。イタリアは行った事ないし、甘いものだって食べれるし」
ユ「分かってる。すぐに別人だって気づいた。でも……本当にそっくりなんだ。彼女と」
レ「……」
ユ「レン先生に妹が居るって聞いた時、もしかしてって期待した。でも」

肩を落として、ユゥイ先生は首を振ると、前髪を乱暴にかきあげた。

ユ「座談会の時に言ってたよね。二人は全然似てないんでしょう?だったら違う。彼女はレン先生に本当によく似ていたから」
レ「……私が言ったのは、『性格が』ってつもりでした」
ユ「え?」
レ「落ち着きのない私と違って大人びていて、頭も運動神経も私より良い。中身は正反対だけど、外見はそっくりな私の双子の妹」
ユ「双子……!?」

ユゥイ先生は立ち上がり、ゆっくりと振り向くレン先生を、驚愕した瞳に映した。「今まで付けてなかったけど」と彼女は呟き、スーツの内ポケットに入れていた、ピルケースに手を伸ばす。中から出てきたのは、ユゥイ先生があの時見たものと同じ、薄紅色の宝石が埋め込まれた十字架のピアスだった。

レ「お義母さんは20歳の誕生日に、私達に1組の十字架のピアスをくれました。それを、私は左、妹は右に分けて、それぞれ持ってた」
ユ「じゃあ、やっぱり!」
侑「おっまたせー!」

第1会議室の窓ががらりと開けられ、シリアスな雰囲気をぶち壊す、底抜けに明るい声が響いた。一同、びくっと体を震わせてそこに目をやると、いつもの如く窓枠に足をかけている侑子先生がいた。ひらりと窓を飛び越えると、重苦しい空気を振り払うかのように、手をパタパタさせる。

侑「あらぁ?何かしらこの空気。まるで昼ドラ並の泥沼恋愛が繰り広げられた後みたいね」
黒「タイミング見て入りやがったな……」
侑「やだぁ。黒鋼先生ったら人聞きの悪い!」

と、普段と変わらないノリでおどけた後、侑子先生はユゥイ先生を見つめた。真っ直ぐな瞳で、真摯な言葉で、語りかける。

侑「ユゥイ先生。貴方は自分で動こうとしたわ。漠然とだけど、日本語を独学で学んで、日本の事を知ろうとして。自分次第で、運命なんていくらでも変わるわ」
ユ「……侑子先生?」
侑「二度と逢えないって未来を、貴方は自分の手で変えたのよ。あたしはその切欠を与えただけ。決めたのはユゥイ先生、貴方自身だから」
四「あ!いた。侑子せんせーい!」

職員室に行こうと、第1会議室の前を通った四月一日達は、会議室内に侑子先生の姿を見つけ、慌てて引き返した。

小「お客さんです」
さ「侑子先生に呼ばれてきたって」

こつ、室内に上品なヒールの音が響いた。柔らかそうな桃色の背中まで伸びた巻き髪、それ以外は、知的な瞳も白い肌も桜色の唇も、あの時と何も変わっていない。パンツ姿の黒いスーツに身を包んだ、目の前の女性に、ユゥイ先生は目を見開いた。
忘れるはずがない、彼女だった。

ユ「君……は……」
レ「あぁー!!」

ユゥイ先生の絞り出した声は、レン先生の叫びにかき消された。現れた女性の手を握りしめ、顔を近づければ、二人がどれだけ似ているかわかる。
ストレートの髪と、パーマがかかった髪。スカートの白いスーツ姿と、パンツの黒いスーツ姿。百面相のように豊かな表情と、落ち着いた一定の感情を保つ表情。
前者がレン先生で、後者が彼女。それ以外は、瓜二つというほどそっくりだった。

レ「何でここにいるの!?いつ日本に来たの!?意味わかんない!」
?「レン……ワタシ、まだ、日本語、覚えたてだカラ、落ち着いて、ゆっくり」
レ「あ、ごめん」
?「変わらないネ、レンは」
レ「それはお互い様。もう、ちゃんと詳しい日にちを言っててくれれば迎えに行ったのに」

そこまで話したレン先生は、女性の視線の先が自分の背後にある事に気付いた。こつり、こつり、ヒール音を響かせて、彼女はユゥイ先生の前に進み出て。目を細め、微かに、笑う。

?「すごい、また、逢えた。ユゥイさん」
ユ「え……なんで、オレの名前」
?「あのあと、アシュラさんから、アナタのコトを聞いて、また逢えたらなって、思ってまシタ」
ユ「……っ」
?「一緒に、働けるなんて、思っても、なかったケド」

ユゥイ先生だけでなく、その場にいる全員が目を見開いた。彼女は、一人一人の顔を確認した後、背筋を伸ばして一礼した。

イ「みなさん、初めまして。ワタシ、新学期から、堀鐔学園で、英語を、担当しマス。レンの双子の妹、イリスといいマス。よろしく、お願い、しマス」

レンの双子の妹で、ユゥイ先生の想い人──イリスは、優雅に微笑んだ。四月一日の歓声が、やけに遠くに聞こえる。夢のような現実が未だに信じられず、ユゥイ先生は瞬きすら惜しむように、目の前にいる彼女を見つめ続けた。





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