Lost Angel


「んー。疲れたぁ。やっと休める」

ぽすん、と軽やかな音を立てて、ベッドがレンを迎えた。メイクを落として、お風呂にも入って、あとは眠るだけの状態なのだ。これから訪れる、至福の時が待ち遠しい。
ファイも寝室に入ってきて、隣に横になるかと思いきや、ベッドの脇に腰掛けただけ。照明を落とす素振りも見せない。不思議に思い、レンは体を起こした。

「ファイ?」
「ねぇ。オレ、まだ納得いってない事があるんだけどー」
「え?」
「どうして隠してたの?」

何を、と聞きそうになったレンだが、喉から出る直前に理解出来た。今日の座談会の内容で、ファイが唯一知らなかった事がある。レンの、過去の職業。彼女が歌手をしていたという事だ。それを今問われていると判断したレンは、ベッドの上に座り直すとしどろもどろに口を開いた。

「だって、昔の事だし……別に……言うほどの事でもなかったから」
「そんな事はないでしょう」
「……怒ってる?」
「少しね」
「どう思われるか、不安だったの……ごめんね?黙ってて」
「じゃあ、聞かせてよ」
「何を?」
「歌手になった経緯。レンレンの事だもん。知りたいよ」

そう言って、ファイはへにゃりと笑う。レンもほっと息を吐いた。
レンはおもむろに、本棚の中の彼女のスペースから、1冊の古いアルバムを取り出していたところだった。革張りの表紙は厚く、重みがある。
彼女はぺたりと床に腰を下ろし、ぱらぱらとページをめくり始めた。隣にファイも腰を下ろし、次々に変わるページをのぞき込む。

「小さい時から歌が好きだったから、暇さえあればいつも唄ってた。でも、本格的に唄いだしたのは16歳だったかな」
「それって、高校生くらいからだねー」
「そ……あ。見た事あると思うけど、この人。私のお義母さんとお義父さん」
「……え!?侑子先生が言ってたセレーネさんって、あの女優のセレーネの事だったのー?それに隣のお義父さんって、俳優のゼウスー?」
「そうそう。ちなみに、二人の本当の子供、この子がメルっていって、モデルやってるの」
「なんか、すごい人達が家族なんだねぇ」
「ふふ。でね、お義母さんが音楽業界の人とも知り合いでね、私に唄ってみないかって勧めてくれたの」

一枚の写真があるページで、レンは手を止めた。写っているのは、コバルトブルーの長髪の女性と、プラチナブルーの短髪を持つ男性。この二人が、レンの義母と義父。そして二人の子供である、青みがかったライトパープルの髪を、ふわふわさせたまま二つに結んでる少女。
この三人のうち、レンは義母である女性を指さして、昔を思い出しながら語った。

「まだ私は高校生だったし、学校にもちゃんと行きたかったから、顔は出さない事を約束してもらって歌手活動を始めたの」
「誰も、唄ってるのがレンレンって知らなかったの?」
「たぶんね。作詞も作曲も自分達でしてたし、手伝ってくれてたスタッフも少人数だったから」
「『達』って?」
「私ともう一人、ピアノを弾いてくれてた人。お義母さんの紹介で知り合ったんだけどね。二人で『Lost Angels』っていう名前で音楽活動をしてたの」
「それ、どういう意味なのー?」
「lostが失われたって意味でしょ?だから『翼を失った天使たち』って意味があったと思う」

次のページの真ん中にある写真を、レンは指さした。まだあどけなさが残る、16歳の頃のレンが、そこにはいた。
そして、もう一人。金の髪と蒼い瞳を持つ少年が、ピアノの前に座っている。彼とパートナーをくんで、レンは唄っていたのだ。

「音楽番組にも出てなかったし、ライブなんかもした事なかったけど、結構人気あったんだよ?」
「へー。あ、これがCDー?」
「そう。デビューCDなの」

ファイは、レンが隣に置いていた一枚のCDを目敏く見つけると、手に取ってみた。淡い色のジャケットには、真ん中に真っ白な羽がふわりと落ちている。キャッチフレーズに『天使の歌声』と『神の指先』と描かれた、二人のデビューシングルのタイトルは『HEAVEN』。

ピアノの音一本に乗せられた、儚くも柔らかい歌声。『天使の歌声』と呼ばれるに、相応しいものだった。
歌だけでなく、ピアノだってそうだ。『神の指先』というキャッチフレーズに、決して劣っていない。一つ一つの音が、まるで静かに生きているかのようだった。
思わず、ファイは小さく身震いをした。

「すご……16歳の歌と演奏なんて、誰も思わないよ」
「面白かったのはね、ネットなんかでいろんな噂が立ってた事。私達の事、20代だって思ってたファンもいたみたい」
「伴奏の子も同い年だったのー?」
「うん」

そこでしばし、会話が途切れた。昔を懐かしみながら、レンはかつての歌を小さく口ずさむ。ファイはというと、曲に聴き入りながらも、何やら考えを巡らせているようで。それを核心に変える為に、口を開いた。

「ねぇ」
「なぁに?」
「もしかして、この子が元彼?」

はっ、とレンが目を見開いた時、ファイの推測が核心に変わった。少し複雑そうに、レンは目を細めた。ぱらぱら、ぱらぱら、ページが一気にめくられる。

「16歳で唄い始めて、彼は16歳でピアノを弾き始めて、ずっと一緒にいるうちに好きになってた」
「うん」
「安定した人気もあって、ずっと順調だったの。でも、私も彼も同じ音大に入学して、それぞれ声楽科とピアノ科に入って、少しずつ変わり始めた」
「変わった?」
「うん。音楽を真剣に学ぶようになって、私は音楽教師に、彼はプロのピアニストになりたいと思ったの」
「……」
「そうしたらもう、一緒にはいられなかった。お互いの夢は応援してたけど、恋人としてすれ違い始めてたから。20歳の冬に、私達は終わった」

ぱら、とレンの手が止まった。ほぼ最後のページには、成長して美しく着飾った2人の姿があった。背景には『GRADUATION CEREMONY』の幕がある。レンと元恋人の、大学の卒業式のようだった。

「音楽を始めて6年。大学を卒業した22歳の春、私達は最後のシングルを出して解散して、別々の道を歩み始めた」
「だとしたら、最後の曲って結構最近なんだね」
「うん。あとはファイも知ってるとおり。私は教員免許も取れてたから、お義母さんの紹介で堀鐔学園に来たの。日本には前から興味はあったしね。試験にも合格して、無事に堀鐔学園の教師になれたって訳」

「これで終わり」とレンがアルバムを閉じると当時に、CDも止まった。本当の沈黙が訪れた中、ファイはCDのジャケットをまじまじと眺めてみた。『Lost Angel』と書かれた、デビューシングルと対になるようなジャケットの、ラストシングル。ファイは中身を取り出すと、『HEAVEN』のそれと入れ替えた。

「なんか……いまいちピンとこないなぁ。というか、そんなすごい人がレンレンなんて、信じられないというか」
「そう?」
「顔を出してたら、もっと売れてたんだろうねぇ。レンレン綺麗だもん」
「でも、そうしたら教師にはなれてなかったと思う。ファイにもきっと出逢えてなかった」

ポロン、ポロン、とピアノの音が聞こえる。それをBGMに、二人は見つめ合い、キスを交わした。
ファイは不安だったのだ。彼女の存在が、歌声が、かつてはたくさんの人のものであった事が。
しかし今は、彼女の存在も、歌声も、愛情もすべてファイだけに向けられている。とろけるようなキスが、それを証明している。
抱き寄せられたレンは、ファイの肩に頭を垂れ、目を閉じた。

「不安、消えた?」
「まだ、少し」
「どうしたら消える?」
「唄って。オレだけの為に」

それが彼の望みならば、何度だって唄おう。たくさんの人の為だけに唄っていた想いを、これからは彼だけに届けよう。
「少し切ない歌だけど、許してね」と言って、レンは息を吸い込んだ。かつてのレンの歌声と、今のレンの歌声が、重なり合い、共鳴する。



“貴方の元に飛んでいきたいのに

私の翼は汚れてしまった

今は翼を広げる事も出来ず

独りうずくまるだけ



貴方の元に唄い届けたいのに

私の声は枯れてしまった

想いを紡ぐ事はなく

掠れた声が中に消える



貴方にそっと寄り添いたいのに

私の心は壊れてしまった

ひび割れて砕けた破片は

二度と戻る事はない



眠りについて夢を見る

柔らかい髪も

寂しそうな瞳も

たくましい腕も

頼れる背中も

優しい笑顔も

思い出とは呼べない

まだこんなにも鮮明すぎる



もう一度だけ

純白の翼で羽ばたけたら

もう一度だけ

貴方の為だけに唄えたら

もう一度だけ

綺麗な心を与えられたなら

全部全部 貴方にあげる



籠の中に囚われたまま

夢を見続ける天使

歪んだ現実を受け入れられず

今日も愛しい人の夢を見る”





──END──

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