秘密の逢瀬


「くそっ。あいつらがぎゃあぎゃあ騒ぐせいで、遅くなっちまった……」

職員宿舎の自室に帰るなり、黒鋼は悪態をつくと、着ていたジャージを乱暴に脱いで、私服に着替えた。サイドテーブルに放り投げた車のキーを再び手に取り、財布と携帯電話だけをジーンズのポケットにねじ込み、今し方帰ったばかりの部屋を飛び出した。

彼の名と同じ、黒い愛車の運転席に乗り込みながら、メールを一通作成する。『今から向かう。いつもの店で待ってろ』とだけ打ち込み、送信画面が終了すると同時に携帯電話を閉じ、キーを捻った。

駐車場を出て信号待ちの為にウィンカーをつけた時、黒鋼の視界に金と桃色が入り込んできた。帰宅中の、ファイとレンだ。まずい気付かれる、と冷や汗がこめかみを伝う。だが、それはいらない心配だった。
黒鋼の車に気付かないほど、二人は話しに夢中だった。終始笑顔で、時折じゃれ合うような仕草さえ見せる。互いの手は、堅く繋がれていて。黒鋼は幸せそうな二人を横目で見ながら、信号を曲がった。

「俺も、言えるもんなら言いてぇよ」

ボソリ、とそう呟いてアクセルを踏み込む。
こうして車を走らせているここも、まだ堀鐔学園の内部なのだ。巨大都市ともいえるこの学園の創設者を見てみたいもんだ、と呆れも混じった溜息をつく。
黒鋼が向かうのは、この巨大都市を出て少し行った、東京の中心地だ。時間短縮の為に都市高速に乗り込み、黒鋼は夜の道を急いだ。

都市高速経由で合計30分弱。ようやく目的地に着くと、黒鋼は車を適当な場所に止めて、いつもの場所を目指した。
彼が向かったのは、隠れ家的な小さな洒落た店。男が一人で入るには少し抵抗がある雰囲気だ。
「お一人様ですか?」と聞く店員に「いや。連れがいる」というと、黒鋼は店内のいつもの席に向かった。

店内の隅に、本を読んでいる一人の少女がいる。彼女の向かいに腰を下ろすと、黒鋼は着ていたジャケットを脱いだ。

「悪ぃ。待たせたな」
「いいえ」
「コンクール、どうだった?」
「なんとか入賞出来ましたわ。ほら」
「相変わらずすげぇな。また表彰されるじゃねぇか」

目を丸くして黒鋼がそう言うと、長い黒髪の少女は嬉しそうに笑った。本を閉じた代わりに少女が広げた賞状には、金賞の文字が誇らしげに書かれていた。その下の受賞者名は『大道寺知世』となっている。
そう、長い黒髪の少女──知世は、さくら達と同い年で、堀鐔学園高等部2年A組の生徒だ。

店員が水を持ってきた時、黒鋼は自分の分のコーヒーと、知世には追加で紅茶と遅れた詫びのケーキを頼んだ。店員が下がると、黒鋼は賞状を知世に返しながら、申し訳なさそうに口を開いた。

「少しでも歌、聴きたかったんだがな。理事長からの呼び出しが長引いてな」
「それなら、迎えに来て下さらなくてもよろしかったのに。家に連絡すれば、迎えが来て下さいますから」
「俺が迎えに来たかったんだよ。学校外じゃなけりゃ、こうやって逢えねぇだろうが」

少し照れくさそうに、そっぽを向いて黒鋼は言った。言葉遣いが少々乱暴なのは、彼なりの照れ隠しだ。それを通じて、想いはさらにストレートに伝わる。知世は、柔らかく笑った。

「有り難うございます。黒鋼先生」
「こんな時まで先生は止めろ。知世」
「……はい。黒鋼」

そう言って、知世は頬を染める。
二人はただの教師と生徒という間柄ではない。その枠を越えた、もっと親しい関係。つまりは、恋人同士だった。
知世が17歳、黒鋼が25歳。8歳という歳の差はあるが、知世が大人びているからか、二人の価値観に大差はなく、順調に交際を進めていた。端から見れば、幼い顔立ちの知世と、実年齢より上に見られる顔立ちの黒鋼では、外見年齢ではさらに差があるように見えるのだが。

ことり、と頼んだ品がテーブルの上に置かれた。知世は、ミルクを紅茶の中に入れて、スプーンでくるくると混ぜながら、黒鋼に問いかける。

「侑子先生のお話、どんなものだったのです?」
「くだらねぇ質問に答えさせられただけだ。他の教師や生徒と一緒にな」
「ああ。だから、今日の引率はレン先生じゃなく、別の先生だったのですね。それは楽しそうですわ」
「楽しいもんか。知世との関係まで追求されかけたんだぞ」

ピタリ、と紅茶を口に運びかけた知世の手が止まり、微かに表情が強ばった。カップには口を付けず、テーブルの上に戻す。不安げに黒鋼を見つめるが、安心しろと宥められた。

「幸い、理事長以外は俺の相手がおまえだと、知らねぇがな」
「侑子先生はご存じなのですか?」
「ああ」
「それは、流石というか」

そう言って、知世は少し苦笑した。戴きます、と控えめに手を合わせて、ケーキを口に運ぶ。美味しいですわ、と頬を弛ませるも、表情は微かに曇っている。他人には分からないような陰りだが、恋人である黒鋼はもちろん気付いた。

「悪かったな。うまく誤魔化せなくて。教師と生徒がこんな関係なんて、知られたくねぇよな」
「違いますわ。わたくしは良いんです。でも、黒鋼はそうもいかないでしょう」
「まあ、下手すりゃ教師をクビになるだろうな。だが、理事長はむしろ楽しそうにしてたぞ」
「侑子先生らしいですわね。バレていたのが侑子先生で本当によかったですわ」

そう、侑子はむしろ応援するような言葉さえ言っていた。黒鋼の相手が生徒だとバレたら、彼だけでなく知世まで世間から冷たい目で見られる。そうならないよう、侑子はちゃんとブレーキをかけてくれていた。

ふと、隣のテーブルに学生らしいカップルが腰を下ろした。制服を着てデート出来て、学校の事を話して、人目を考えずに手を繋げる。二人を見つめる知世の目には、明らかに羨望がこもっていた。
砂糖も何も入れていないコーヒーを一口飲むと、黒鋼は口を開く。

「後悔してるか」
「いいえ。わたくしが大好きになった人が、たまたま歳が離れていて、たまたま教師だっただけですもの。好きな人が、わたくしの事を好きでいてくれた。そんな奇跡を、後悔なんて言いません」
「……知世」
「普通に逢ったり出来ないのは、少しだけ寂しいですけどね。少しだけ、ですよ」

少しだけ、を強調して知世は笑った。
そう、彼女は無理や我が儘を言わない。相手が困るような事はしないし、相手に自分の望みを押しつけるような真似もしない。そんな優しい心が、黒鋼が知世に惹かれた要因の一つ。
でも、たまには我が儘を言われたい時だってある。言いたい事を言えないなんて関係なんて、少し寂しいだけ。本当は、知世だって普通に人目をはばからず、大好きな人と手を繋ぎたいはずだから。
彼女の気持ちをくみ取って、黒鋼は口を開いた。

「あと1年だ」
「えっ?」
「あと1年したら、おまえは高校を卒業する。こうしてこそこそ逢う必要もなくなるし、他の奴らにだって俺は知世が好きだと言えるようになる」
「……黒鋼」
「だから、あと1年。我慢してくれ」
「……はい」

今度は、本当に幸せそうに、知世は笑った。カップを持つ左手の、小指にはめられたピンキーリングがきらりと光る。ピンクゴールドの華奢なリングに、赤いルビーのような石が埋め込まれているそれ。知世の細い指を、静かに飾る。
今はまだ、それだけでいい。いつか互いの薬指に、揃いの指輪が付けられるようになるまでは。





──END──

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