紫煙の行方(デンジ視点)


 吐き出された紫煙が宙に溶けて消える様子をボーッと眺めながら、どのくらいの時間が経っただろう。一服してくると言うとチマリが怒るので、ジムの備品を買いに外出してくると言ってきたから、戻るのが遅れても特に問題はないだろう。臭いでタバコを吸ってきたことはどうせバレるだろうが、それでも今はこいつに頼らないとどうにもならない。そんな気分だった。
 吸いながら思い浮かぶのは、つい先日別れを告げた『彼女だった女』の泣き顔と、それともう一人。
 枝を踏む音が聞こえ、自然にそちらへと視線を向ける。考えていた『もう一人』が、そこにいた。

「デンジ、君」
「……ああ。レインか」

 今日ジムに来るという話は特にしていなかったから、若干戸惑いつつ、顔を見られたことは素直に嬉しかった。灰皿に手を伸ばそうとすると、レインは首を横に振った。

「消さなくて大丈夫よ。あの、隣いい?」
「ん」

 それならせめて、煙がレインのほうになるべく行かないように、風下へと席を詰め、レインの場所を風上へ作った。空いた場所にレインが腰を下ろすと、二人分の重みでベンチがミシッと軋んだ。
 レインは考えていることが顔に出るので、今何を思っているのかすぐにわかってしまう。不安と、戸惑いと、心配。それらは全てオレに向けられている。

「何かあったの?」
「ん? どうして?」
「デンジ君、普段はタバコを吸わないから……何かあったのかなって」
「……」
「言いたくなかったらいいの。でも、もし何か辛いことを隠してたら、無理はしないで欲しいなって」
「別に大したことじゃないさ」
「……そう、なの?」
「ああ。付き合っていた彼女と別れた。それだけ」

 嘘じゃない。本当のことだ。タバコを吸っている原因の一つは、間違いなくこれだ。他に原因があるとしても、嘘を付いていることにはなっていない。
 明らかにレインは戸惑っている様子だった。オレがあまりにもサラリと、何でもないように、恋人との別れを口にしたからだろうか。
 タバコを灰皿に押し付けながら言葉を探す。この事実にこれ以上も以下もないのだが、どう言ったら心配ないと伝わるのだろうか。

「悪い。困らせるつもりはなかったんだ」
「あ……ううん。私のほうこそ変に詮索してごめんなさい。それに、そういう恋愛ごとはよくわからなくて……」
「本当にレインが気にする必要はないんだ。今までのように付き合って別れて……ってな。ただそれだけのことだ。それに、今回はオレから振ったんだし」
「でも、タバコを吸ってるってことは、何か思うことがあるんでしょう……?」
「……そうだなぁ」

 宙を見上げ、またあの泣き顔を思い出す。泣いた顔を見たのは初めてだったな。さすがにあのときは胸が痛んだ。だからこそ、罪悪感を誤魔化すために、オレは久しぶりにタバコに手を出したのだから。
 あいつに非があったわけじゃない。関係がうまくいっていなかったわけでもない。それなのに、あいつからしたらオレから一方的に別れを告げられたのだから。

「今回は別れた相手に非はなかったから、悪いことをしたと思ってるのかもな。少し気は強いけど、思いやりのあるいいやつだったから。別れてくれって言ったとき、あいつ泣いてたし」
「……そんな相手なのに、別れちゃったの? 嫌いになったとか、そういう訳じゃないんでしょう?」
「……んー」

 苦笑するしかなかった。オレは自分の気持ちがわからないほど鈍感ではない。だから、きちんと理解している。
 別れた理由。それは今、目の前にいる幼馴染みに、今までにない感情を抱き始めていると、自覚したからだ。
 相手がレインでなければ、さっさと自分の想いを伝えていただろう。でも、相手はレインだ。レインをナギサの海で救ったその日から、まるで捨てられたポケモンを拾ったかのように、今日まで見守ってきた。
 そんなレインを、オレは恋愛対象として見ているのか? 恋人という立ち位置に起き、抱き締めて、キスして、全てを自分のものにしたいと思っているのか?
 自覚はしても、受け入れるまでには心の整理が必要だった。だから、こいつに頼っている。これが、タバコを吸っていたもう一つの理由。

「吸ってみるか?」
「え?」
「これ」

 箱を指先で叩き、タバコを一本取り出して、いつも吸うときのように口元へ持っていき、ライターで火を付けた。それだけの動作が、レインにとっては物珍しいらしい。食い入るようにじっとオレの口元を見ている。
 レインとの距離を詰めると、またベンチがギシリと軋んだ。咥えていたタバコを差し出すと、レインは少し考える素振りを見せたあと、口を小さく開けてそれをそっと咥えた。

「ゆっくり、ストローでジュースを飲むみたいに煙を吸って」
「ん……」
「飲み込んで……」

 吸って数秒としないうちに、レインは咳き込んで口元を押さえた。

「ケホ、ケホッ」
「大丈夫か? 初めてだと大体むせるんだよ」
「苦い……」
「もう少し練習してみるか?」
「ううん……私はもういい、かな」
「……そうだな。タバコは吸わないのが一番だからな」

 よしよし、と頭を軽く撫でる。涙目で見上げてくる姿は、やっぱり、オレにとっては保護する対象であり、幸せに日々を過ごして欲しいと見守るべき対象である。
 想いを告げて、恋人という立ち位置になればそれが一番よく叶うのはわかっている。しかし、オレにはまだその覚悟と自信がない。
 きっと、オレが今までに別れた恋人の人数は一般より多いと思う。それをオレは誇らしいと思わない。それは、うまくいかなかった恋愛の数であり、幸せにできなかった相手の数だからだ。
 レインは今までの女のように、簡単に想いを捨てられる相手ではない。だからこそ、時間をかけて心の整理をしなければならない。この、左手に重ねられた右手の持ち主に、胸を張って好きだと、誰よりも幸せにしてみせると、そう言えるようになるまでは。



2019.6.10


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