紫煙の行方(夢主視点)


 その日は特に逢う約束をしていたわけでもなかった。ただ、私の仕事が早く終わったので、少し顔を見ようと思ってナギサジムへ向かった。そのくらいの気持ちだったので「デンジはお出掛けしてるよー!」と、チマリちゃんに言われても、特に落胆することもなく、来た道を引き換えそうとジムの外に出た。
 そのとき、鼻を突く臭いがどこからか漂ってきた。ジムに入る前はなかったその臭いは、タバコの煙の臭いだ。
 もしかして、と思いジムの裏手に回る。人が二人ようやく座れるくらいの大きさの簡易ベンチに、デンジ君は座っていた。長い足を組み、右手の中指と人差し指の間でタバコを挟んでいる様は、雑誌の表紙を飾るモデルのように絵になっている。

「デンジ、君」
「……ああ。レインか」

 吐き出された煙と共に私の名前を紡いだ口が、薄く弧を描いた。灰皿を引き寄せようとする素振りをしたので、首を横に振る。

「消さなくて大丈夫よ。あの、隣いい?」
「ん」

 デンジ君は一旦立ち上がると、ベンチの右側に座り直した。デンジ君の左側に回り腰を下ろすと、こちらが風上であることに気付いた。私がタバコを吸わないことを知っているから、座り直してくれたんだ。
 でも、デンジ君だってそう。彼は普段、タバコを吸わない人。それが吸っている、となると。

「何かあったの?」
「ん? どうして?」
「デンジ君、普段はタバコを吸わないから……何かあったのかなって」
「……」
「言いたくなかったらいいの。でも、もし何か辛いことを隠してたら、無理はしないで欲しいなって」
「別に大したことじゃないさ」
「……そう、なの?」
「ああ。付き合っていた彼女と別れた。それだけ」

 本当に、特になんでもないように、デンジ君はさらりとそう言った。
 恋愛に関しては疎い私だけれど、世間一般的に考えると、恋人の別れというと重要度の高いものではないか、と思う。それを、大したことじゃないなんて。
 私が知る限り、デンジ君が今までお付き合いした人の数は片手では足りないくらいだし、それだけ出会いと別れを経験しているのかもしれないけれど、それでも。
 私が戸惑っているのを察したデンジ君は、言葉を探しながら、タバコの先を灰皿に押し付けた。

「悪い。困らせるつもりはなかったんだ」
「あ……ううん。私のほうこそ変に詮索してごめんなさい。それに、そういう恋愛ごとはよくわからなくて……」
「本当にレインが気にする必要はないんだ。今までのように付き合って別れて……ってな。ただそれだけのことだ。それに、今回はオレから振ったんだし」
「でも、タバコを吸ってるってことは、何か思うことがあるんでしょう……?」
「……そうだなぁ」

 タバコの箱をトン、トン、と指の腹で叩きながら、ボーッと宙を仰ぐ。タバコのことはよくわからないけれど、デンジ君の手の中にあるそれは深い青と薄い黄色のパッケージで、なんとなくデンジ君っぽいなと思った。

「今回は別れた相手に非はなかったから、悪いことをしたと思ってるのかもな。少し気は強いけど、思いやりのあるいいやつだったから。別れてくれって言ったとき、あいつ泣いてたし」
「……そんな相手なのに、別れちゃったの? 嫌いになったとか、そういう訳じゃないんでしょう?」
「……んー」

 あまり詮索しないほうがいいのだろうとは思いつつ、聞かずにはいられなかった。そういう風に苦笑して欲しいわけじゃない。ただ、いつものように、太陽のように明るい姿が見たいだけ。
 少しの沈黙のあと、デンジ君はタバコの箱を私の前に差し出してきた。

「吸ってみるか?」
「え?」
「これ」

 少し強めに箱を指で叩き、タバコを一本取り出す。二本の指でそれを挟み、口元に持っていき、ライターで火をつける。タバコを口から離し、息を吐くと、息と共に吐き出された紫煙が宙を漂って消えた。
 その一連の動作が、私にとっては非日常的で、デンジ君を少し遠くに感じてしまった。だから、体に悪いものとはわかっていても、デンジ君に少しでも近付きたくて、首を縦に振った。
 デンジ君は私との距離を詰めて、自分が咥えていたタバコを差し出してきた。不安と、少しの好奇心。恐る恐る口を開き、それを咥える。

「ゆっくり、ストローでジュースを飲むみたいに煙を吸って」
「ん……」
「飲み込んで……」

 煙が肺の中に入ってくる、と思った瞬間、頭がクラクラして咳き込んだ。

「ケホ、ケホッ」
「大丈夫か? 初めてだと大体むせるんだよ」
「苦い……」
「もう少し練習してみるか?」
「ううん……私はもういい、かな」
「……そうだな。タバコは吸わないのが一番だからな」

 薄く笑いながら、子供のように頭を軽く撫でられると、もうそれ以上聞いてはいけない気がして口を閉じた。
 タバコの味も、恋愛の痛みも、何もわからない私はただ、デンジ君に早く笑顔が戻りますように、と願うことしかできず、彼の左手に自分の右手をそっと重ねた。



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