幸せのメロウラブ


※本編のデンジEND直後



 息が、できない。唇が重なっているこの状況で、どうやって酸素を取り入れたらいいかなんて、そんな知識を私は持ち合わせていなかった。でも、自分から唇を離すのは、とても、惜しくて。ずっと、こうしていたいとさえ思えて。私は全身でデンジ君の体温を感じていた。
 いよいよ酸欠になるのでは、と頭の片隅で思ったとき、デンジ君はそっと唇を離して、跪いたまま、座り込む私をギュッと抱き寄せた。デンジ君の腕の中で深く息を吐き出し、飽和状態になった頭の中で、ぼんやり、思う。
 幸せ。今このときを、ものすごく幸せに感じる。今までデンジ君から抱きしめられたことはあっても、私はこんな気持ちにならなかった。それは、なぜか。答えは明確だった。今までとは違う感情が、私の中に芽生えたからだ。
 私は、デンジ君を愛している。はっきりとそう認識できる。家族や友達、手持ちのポケモンたちに感じる『愛』とは違う、別の『愛』を感じている。そして、デンジ君も私に対して同じ『愛』を抱いてくれていると、言葉と行動で示してくれた。
 だから今、私はこんなにも幸せなのだ。思考回路が溶けてしまいそうな程に甘ったるい幸福に、のぼせてしまいそうなほどに。

「レイン」
「……は、はいっ」

 せっかく名前を呼んでくれたのに、私の名前じゃないみたいにデンジ君が優しく呼ぶから、一瞬反応が遅れてしまった。

「ポケモンたちを回復させるだろ? ポケモンセンターに行くか」
「え、ええ。そうね」

 体が離されて、熱を帯びていた肌が空気に触れて、少しだけ冷やされた。
 頑張ってくれたポケモンたちを回復させてあげなくっちゃ。でも、もう少しだけ二人でいたかったな、なんて。
 私もデンジ君の背中を追いかけようとしたけれど、デンジ君はふと立ち止まって、くるりと半回転した。

「デンジ君?」
「やっぱり、ここで回復させるか」
「え?」
「簡易的な回復装置だから、ポケモンセンターほど早くはないけどな。いいか?」
「うん!」

 嬉しい。もしかして、デンジ君も私と同じことを思ってくれたのかな、なんて。
 私は六つ。デンジ君は四つ。モンスターボールをセットして、回復装置にもたれ掛かるようその場に座り込んだ。ギュッ。私の右手がデンジ君の左手に包み込まれた。あたたかい。嬉しい。
 沈黙がなんだか気恥ずかしくって、でもすごく心地良くって、顔がだんだん火照っていくのがわかる。右上からデンジ君の視線を感じるから、尚更。

「オレの思い違いじゃないみたいだな」
「えっ?」
「いや。何でもない」

 ふわり。デンジ君が、笑った。さっき、バトル中に見た笑顔とは違う、とても柔らかい笑顔。
 う、わ。体中の血が、沸騰、しちゃい、そう。

「レイン、顔が真っ赤だぞ?」
「だ、だって……」

 嬉しそうに笑ったデンジ君は、繋いでいる手とは逆の手で私の頭を撫でた。もう、これ以上触れられたら、私の心はオーバーヒートしてしまいそうで、少し、怖い。でも、今までの私とは違う私が顔を覗かせるたびに、それも全部デンジ君に知って欲しいって、思う。

「本当に今日はいいことばかりだな。バトルは楽しかったし、レインとはこうしていられるし」

 その言葉に、ゆで上がっていた私の脳は少しだけ冷やされて、冷静な思考を繋ぐようになった。
 そもそも私は、デンジ君がポケモンリーグに行くことを阻止するために、彼に戦いを挑んだのだ。でも、私は負けてしまった。その事実は何も変わっていない。
 急に怖くなった。やっぱり、デンジ君は遠くに行ってしまうのかしら。私の手が届かないような高見に上って、逢いたいときに逢えない距離を作ってしまうのかしら。
 ギュッ。右手に力を込めた。

「レイン?」
「デンジ君……私……負けちゃった、けど……やっぱり、リーグには行って欲しくない……」
「まさか。行くかよ」
「えっ?」

 デンジ君があまりにもさらりと私の望んだ答えを言い切ったから、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。「あー……」と、デンジ君は言いにくそうに言葉を濁すと、視線を宙に彷徨わせた。
 そして、数秒後。納得のいく言葉が見付かったのか、デンジ君はゆっくり口を開いた。

「オレは痺れるような熱いバトルをしたかったんだ。勝敗は関係ない。オレに勝つといっても、しょうもない勝ちかたをしていくチャレンジャーもいる。それよりも、全力でぶつかって来てくれたレインとのバトルの方が格別に楽しかったんだ。結果はどうあれ、な」
「デンジ君……」
「だから、オレはまだジムリーダーを続ける。ここにいてもまだまだ痺れて熱くなれるってことを思い出したからな」
「よかった……!」
「……本当はもう一つ理由があったんだが、それは言わないでおく」
「え?」
「ちょっと情けない理由だからな」
「?」

 クエスチョンマークをぽんぽん飛ばして首を傾げる私を見て、デンジ君は気にするなと首を振った。そうは言われても、気になる。
 デンジ君をジーッと見つめていると、彼はフッと笑って、顔を近付けてきた。また、息が、詰まる。

「こんなに可愛い恋人を置いてどっかに行くわけないだろってこと」
「……っ!」
「今度はちゃんと息しないと……死ぬぞ?」

 ぞくりとするほど妖しく笑って、デンジ君はまた私の唇にそれを重ねてきた。その直後、私はデンジ君がの言葉の意味を理解した。デンジ君の舌が私の口内に進入してきて、私の舌に絡み付いてきたのだ。私は驚いて目を開けてしまったけれど、デンジ君は涼しい顔で私の口内を荒らしていく。
 戸惑う私の舌を追いかけるように舌を動かし、時折上顎を掠めたり、歯列をなぞったりする。すぐに酸素が足りなくなって、密かに鼻から吸った息を吐き出したくなったけれど、吐き出す息さえも貪るようにデンジ君は私の唇に噛みついた。
 結局、上手く空気を取り込めないでいると、デンジ君がたまに唇を離して、キスの合間に短い休憩を作ってくれた。私が息をしたことを確認すると、またすぐに彼は唇を重ねてくる。その繰り返しでどのくらいの時間が経過したのかわからないけど、ずっとこうしていたいと思った。
 恋人になったんだ、と改めて自覚する。私はデンジ君の幼馴染であり、親友であり、恋人である、なんて。なんて贅沢な立ち位置なのだろう。本当に、幸せすぎていつか罰でも当たってしまいそうだわ。
 また唇が離されて小休憩を与えられたと思ったけれど、デンジ君は再び唇を重ねてこなかった。その代わりに額をこつんと合わせられて、至近距離でジッと見つめられた。見つめてくる青を、肩で息を切らしながら見つめ返すと、デンジ君はぐっと息を詰まらせた。

「あー、もう。その顔は反則だろ」
「えっ?」
「可愛すぎ……」

 ぎゅうっ。今日抱きしめられたのは、これで何度目だろう。そろそろ本当に、私の体は溶けてしまうんじゃないかしら。

 ーーデンジ君、好き。大好き。あいしてる。

 ポケモンたちの回復はすでに終わっていて、回復装置は静かに停止し、この空間には何の音も響いていない。ただ、私の心臓と同じくらいトクトクと速く鼓動するデンジ君の心音だけを、私の耳は拾っていた。そこに、遠くから新しい音が聞こえてくる。
 「もうちょっと待ってくださいよ! あたしが絶対にデンジさんを倒しますから!」「その前におれが倒すぜ! リベンジだ!」「デンジが四天王になってから挑戦しに来いよ」「「いや!」」「あら、息がピッタリ。仲がいいわね、二人とも」「「!」」「つか、もう帰ってるだろ。デンジはいつだって社長出勤の定時帰宅だ」
 そんな会話の直後、このバトルフィールドに続く扉が開いた。私もデンジ君も反射的にそちらを向く。声から人数と、それが誰であるかはわかっていた。ヒカリちゃんとジュン君、それからオーバ君とシロナさんがそこに立っていた。
 その瞬間だけ、空気が止まっていたと思う。でも、オーバ君がつかつかと私たちのほうへと足早に駆け寄って……右手に拳を作って、デンジ君を殴り飛ばしてしまった。

「でっ! デンジ君!」
「デンジ、おまえ……大切にしてると思ってたから応援してたのによ……無理強いするほど腐ってたのか!」
「って……! つか、おまえ何言って」
「言い訳は聞かないぞ! レイン、泣いてるじゃねぇか!」
「ちっ、違うの! オーバ君! 違うのっ!」

 再びデンジ君に殴りかかろうとした、オーバ君の腕を掴んで必死に止めた。

「レイン」
「違うの! あの、無理やりとか、からかわれているとか、そんなんじゃなくて、そのっ、ちょっと息ができなかったから涙目になっただけで……あ、デンジ君っ」

 上手く言葉で説明できなくて、先にデンジ君に駆け寄る事にした。腫れた左頬と、切れた唇に波導を流し込む。波導の修行をした成果が、まさかこんなところで役に立つなんて。

「……あれ? どうなってんだ?」
「きみの勘違いでしょ」

 傷が完治したことを確認すると、私とデンジ君は立ち上がってオーバ君とシロナさんに向き合った。ちなみに、ヒカリちゃんとジュン君は入り口で立ち尽くし、ぽかんと口を開けたままだ。

「オーバ、てめぇ……勘違いも甚だしいぞ」
「えっ? なんだ? ……はっ!? つまり」
「こういうことだ」

 デンジ君は私の肩を抱いて、オーバ君に見せつけるように自分へと引き寄せた。また、頬に熱が集まって、くる。
 恥ずかしくって、火照った頬を隠すように俯いていると、シロナさんの歓声が聞こえてきた。

「まあ! 本当によかった! レインちゃんはデンジには勿体ない気もするけれど、これできみも少しは落ち着くかしらね」
「チャンピオン……貶してるのか祝福してるのか、どっちかに……」
「あら。ちゃーんと祝福してるわよ! おめでとう、二人とも!」
「ありがとう、ござい、ます」
「なんだよ! おまえら俺がいない間にデキちゃったのか! 経緯を詳しく聞かせてもらうからな! 飲みに行こうぜ! 飲みに!」
「ここは二人の親友であるオーバの奢りでしょうね?」
「おお! 任せ……って、え?」
「ヒカリちゃんにジュン君! 勝負はまた今度よー」
「って、チャンピオン!」

 ヒカリちゃんとジュン君を両脇に引き連れて外に向かうシロナさんを、オーバ君は追いかけていった。また、バトルフィールドに静けさが戻る。

「あいつら、勝手に言いやがって」
「ふふっ。私たちも行きましょう」
「仕方ないな。 ……レイン」

 みんなのモンスターボールを取ったところで振り向くと、唇に触れるだけのキスが落とされた。

「改めて、これからよろしくな」
「……はい。よろしくお願いします」

 ここが私たちの終着点であり、新たな始発点。これからは二人、同じ歩幅と速度で歩いていける。できるなら、ずっと一緒が良い。ずっと、ずーっと。
 私たちはみんなの後を追うために、同じ足を同じ幅だけ踏み出した。二人の間で揺れる片手は、しっかりと絡み繋がっていた。



2010.10.5


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