何かを犠牲にするのは止めにしよう


「アブソル。一つだけ約束してくれるかい?」

アブソルを仲間にしたとき、ゲンはモンスターボール越しに囁いた。初めて自分の主人となったトレーナーの言葉を、アブソルは真摯に聞き、彼がそれを望むのならどんなことがあろうと、守ってみせようと思った。

「例えどんなことがあっても、決してあの技だけは使ってはいけないよ」

交わされた一つの約束。それは、数年前の話。







たまには二人で散歩でもしようか、とゲンがアブソルに声をかけたのが数時間前のこと。他の手持ちを全てポケモンセンターに預け、モンスターボールからアブソルを呼び出し、森の中を二人並んで歩いた。
ポケモンはモンスターボールに入れた状態で連れ歩く。それが世間の常識。体が大きなポケモンならばなおさらだ。
こうして、トレーナーと並んで歩くという行為は、ポケモンにとってもなかなかない機会だ。二人分の足音にアブソルは戸惑いつつ、どこかくすぐったそうで、嬉しそうだった。

常盤色に映え茂る木々達が、天然のアーチを作り出している。木漏れ日が地面に影を落とし、気持ちのいい風がそよぐたびにユラユラと踊る。胸一杯に美味しい空気を吸えば、色んな悩みさえもリセットできるようだった。

しかし、しばらくしたところで、ゲンがぴたりと歩みを止めた。アブソルが顔を上げると、そこには表情を強ばらせた彼がいたのだ。帽子を目深に被っていても、彼の輪郭を伝う冷や汗が、なにか不吉な事態が起こってしまったことをアブソルにも知らせる。
ゲンは、美味しそうに熟れた赤色の実がなる木の幹についた爪痕らしきものをなぞると「アブソル、戻ろう」と踵を返した。
アブソルが慌てて彼の後を追おうとした、刹那。ゲンの体が、地に倒れた。

アブソルには、なにが起きたのかわからなかった。 ただ、地に伏せたゲンが苦しそうに息を漏らし、引き裂かれた胸元を片手で押さえている。理解しがたい光景、だった。
すぐさま彼の元に駆け寄り、傷跡をペロペロと必死に舐めた。これは、ポケモンの技の「引っ掻く」だ。

体に影がかかり、アブソルは顔を上げた。壁のように立ちはだかる、巨体。野生のリングマだった。しかも、一匹だけじゃない、数匹存在している。
ここまできて、ようやくアブソルにも理解出来た。野生のリングマは、縄張り内の餌がなる木の幹に爪痕をつけて目印にする習性がある。
アブソルとゲンは、知らない間にリングマの縄張りへと迷い込んでいたのだ。そして、縄張りを荒らされると勘違いしたリングマにゲンが襲われた。

リングマの鋭い爪が、アブソルに狙いを定めた。ゲンのスーツの襟元を加え、アブソルはその場を飛び退いた。地面に残る、深い亀裂。退いていなければ、見るも無惨な姿になっていたのは自分達だろう。
アブソルは、気絶したゲンをそっと木の幹にもたれかけ、地面を蹴った。しかし、迷いがアブソルを襲う。自分は今までどうやって戦っていた?と。

アブソルは、かつて野生のポケモンだった。災いポケモンと疎まれ、山奥でたった独りきりで暮らしていた。
独りでのバトルにも慣れていたはずなのに、ゲンと出逢って彼の手持ちになり、一緒にバトルをする時間が増えて、独りでの戦い方を忘れてしまった。
それは幸せなことなのだろう、自分を理解し的確に指示を出してくれるパートナーがいるということだから。
しかし、今のアブソルにとっては不運以外になんでもない。もう、独りでは戦えない。主人を、ゲンを守れない。

嗚呼、己の弱さに苛立ちを隠せない。ゲンを隠すように、痛めつけられて震える足で立ち上がりながら、アブソルは野生のリングマの群を睨みつけた。見える範囲で五、六体はいるだろうか。
鋭い爪を光らせ、威嚇するようにうなり声を上げる。 何か決定的な一撃を受ければ、もう自分は動けないだろう。
アブソルはちらりと背後を振り返った。ゲンは気絶したままだ。それならば大丈夫、なにも聞こえないだろうから。

アブソルは大きく息を吸い込んだ。この技で、全てを終わらせるつもりだった。
例え、数年前の約束を破ることになったとしても。災いポケモンと名付けられ、災害をもたらすと人々から疎まれていた自分を理解して、初めて優しく接してくれたゲンを守ることが出来れば、それで良い。
この、死の旋律を持って、全てを。

「いけないよ」

背後から手が伸びてきて、アブソルの口を覆った。ビクッ、と体が震える。ゲンは片手で傷を受けた胸元を押さえ、もう片手でアブソルの口を塞いだのだ。
彼はまるで小さな子供を叱るような口調で、アブソルに話しかけた。

「約束を破って、わたしの為に“滅びの歌”を使うつもりだっただろう?」

『滅びの歌』。それは、アブソルが覚える技で最高にして最強の技。その歌を聴いた生き物は、体内からダメージを負い、瀕死状態になるという。その効力は、歌い手も瀕死状態に陥るという代償を伴う。場合によっては死に至るケースもあるという、美しくも残酷な鎮魂歌なのだ。
だから、ゲンはアブソルと約束した。「例えどんなことがあっても、決して滅びの歌だけは使ってはいけないよ」と。

「わたしを置いて逝ったりしたら許さない……もう、大切な者の死はたくさんだ」

そう、ゲンはこういう男なのだ。自分が傷つくことは構わないくせに、己の大切な者が傷つくことを極端に恐れる。嗚呼、彼は何に囚われて生きているのだろうか。

そのとき、先頭にいるリングマが鋭く爪を伸ばした。「切り裂く」、だ。応戦しなければと判断を下す思考とは逆に、アブソルの体は動かない。しかし、聞こえてきた「“鎌鼬”だ!」というゲンの声に、気付けば角に風をまとわせ、リングマに向けて放っていた。
思わぬ反撃に、野生のリングマが怯んだ。

「共に、戦おう」

ゲンは言った。それなら、何も恐れることはないのだから。
アブソルは強く頷き、足を踏みしめた。今、自分に出来ること。それは、主人の指示通りに体を動かし、一刻も早くけりを付けて、彼を背に乗せてポケモンセンターへと走ることだ。
もう一度聞こえてきた「“鎌鼬”」の声に、アブソルは再び風をまとった。





──END──

2009.7.7


- ナノ -