63.心の深淵に潜む闇


 そっ、と床に足をつける。そのまま力を入れて、恐る恐る立ち上がってみた。恐れていた痛みは全く感じない。包帯を解いてみると腫れは綺麗に引いていた。一日安静にしていたお陰か、グライガーに襲われたときに捻った足首は完治していた。

(マスター……痛い?)
「ううん。もう何ともないわ。これなら先に進めそう」

 ずっと私の怪我を心配してくれていたシャワーズは、安心してようやく笑ってくれた。
 私は旅支度を調えながら、壁に貼り付けてあるタウンマップを見やった。今日こそはテンガン山を通過して、ヨスガシティへ行かなくちゃ。ここからだったら、一日かからずに行けるはず。
 ちなみに、ここというのはミルちゃんの家だ。助けてもらったお礼に、というミルちゃんのお母さんのご好意に甘えて、私はコウキ君と一緒に泊めてもらったのだ。……私は何もしていないけどね。

「さぁ、準備ができたわ」
「シャワッ!」
「ええ。行きましょう」

 私とシャワーズは一晩お世話になった部屋を出て、先に外にいるコウキ君の元に急いだ。すでに玄関先にいた彼は、なぜか申し訳なさそうに眉を下げた。

「えっ? ハクタイシティに戻らなきゃいけないの?」
「はい。ちょっと、ナナカマド博士のところに忘れ物をしちゃって。だから」

 コウキ君は、一つのモンスターボールを開けると、中からケーシィを呼び出した。

「レインさんはぼくのケーシィを連れて、先に行ってください」
「でも、次はいつ会えるか」
「大丈夫です。ケーシィはテレポートが使えますから、テンガン山を越えたらぼくのところに戻るように、と言ってくれたら」
「なるほど。わかったわ。ありがとう」

 玄関先でそういったやり取りをしていると、家の中からミルちゃんが姿を現した。その後ろから、彼女のお母さんも出てきたので、私たちは軽く会釈をしてからミルちゃんと視線を合わせた。

「ミルちゃん、泊まらせてくれてありがとう。おかげで足はすっかり治ったわ」
「もう、迷子にならないようにね」
「はい! ミル、頑張って強くなります! どこに行っても一人で泣いたりしないように。コウキさん、レインさん、いつかミルと戦ってくださいね!」
「うん」
「もちろんよ」

 ミルちゃんは、私たちの姿が見えなくなるまで手を振っていてくれた。
 それからしばらくして、私はコウキ君と別れて、左にケーシィと右にシャワーズを連れて207番道路を歩く。
 コウキ君は、あのサイクリングロードの上り坂を行くのよね。他人事だけど、考えただけでぞっとする。私だったら、途中で絶対に体力が尽きてしまうわ。
 と思っていたけど、コウキ君の心配をしていられないことに気付いた。私が歩いている道も、かなりのデコボコ道で体力を消耗するのだ。
 テンガン山という大きな山が近いせいか、ここは道があまり整備されていなくて不安定だ。そして、荒々しい岩肌を剥き出しにした山肌が両脇にそびえ立っている。歩くたびにブーツの裏で音を立てる砂利に、疲労が重なっていくような気がした。
 そんな道をしばらく歩いていくと、ようやくテンガン山の麓に洞窟が見えてきた。

「……おっきい」

 山の麓から見上げても、頂上までを視界におさめることはできないほどの大きさを誇る、テンガン山。山中はいつも雪に覆われていて、内部には広大な迷路が広がっている、神聖な山。どこかには遺跡があるという噂もあるけれど……今は、ここを通過することだけを考えなきゃ。
 一歩だけ、中に足を踏み入れてみると、予想通りそこは暗かった。普通の人にはどうってことない、薄暗い程度の暗さでも、私は人一倍暗い場所がダメだから。

「ケーシィ。フラッシュをお願いしていいかしら?」

 コクン、とケーシィは頷くと、両手に光の玉を集めた。その玉は小さなものから、だんだんと大きくなり、目映いほどに辺りを照らす。よかった、これなら怖くない。
 それにしても、本当に迷路みたいな洞窟だわ。迷わないようにしなきゃ……。

「……え」

 道が段になっているところまで進んだところで、正面から誰かが歩いてきた。見知らない人だったらよかった。会釈してすれ違うとか、そのくらいで良かったはずだった。
 それなのに、どうして、関わらないほうがいいと言われた人に……アカギさんに出会うの?

「シンジ湖に続いてハクタイ、そしてテンガン山。きみとはよく会うな」

 アカギさんも、私のことを覚えていたみたいだった。ドクン、ドクン、静かな空間では心臓の音が彼まで聞こえてしまいそうで、必死に左胸を押さえた。

「きみは始まりの世界を知っているか」
「始まりの……世界……?」
「このテンガン山はシンオウ地方始まりの場所、そういう説もあるそうだ」
「始まりの場所……ここが……」
「……できたばかりの世界では争いごとなどなかったはず。だが、どうだ?」

 アカギさんは改めて私の目を見つめた。氷のような瞳は、ずっと奥の芯から凍っているように冷ややかだ。また、全身に戦慄が駆けめぐる。

「人々の心というものは不完全であるため、みな争い、世界は駄目になっている……愚かな話だ……」

 吐き捨てるように言葉を紡いだあと、アカギさんは私の脇を通り過ぎて行った。シャワーズが、脅えるように私の足下にすり寄ってきたのがわかった。その場に屈んで、微かに震える背中を撫でてあげながら、彼の言葉の意味を考える。私の手も、また、震えていた。

「……ねぇ、シャワーズ」
「シャワ?」
「確かに、人間は複雑な生き物よ。自分とは違う存在を嫌悪して、力を求め争いあう。……でも、それだけじゃない。とても優しい心を持つ人だってちゃんといるもの」
「シャワー」

 シャワーズが穏やかに笑う。きっと、この子の頭の中にもいろんな人たちの顔が浮かんでいるはず。デンジ君、オーバ君、父さんと母さんに孤児院の子供なち、シロナさん、ヒカリちゃんにジュン君にコウキ君……みんな、暖かい。
 でも、きっと完全な心を持つ人なんていない。心に闇があるからこそ、人間なのだから。
 ……アカギさんは、冷たい瞳の奥にどんな闇を持っているの。

「……行きましょう」

 一度だけ、彼が去ったあとの道を振り返って、私たちはテンガン山の出口を目指した。





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