61.重度自己否定的思考障害


 モンスターボールをカタカタ震わせながら、外に出してくれと催促するシャワーズのお望み通りにしてやれば、シャワーズは大きく伸びをして原っぱをスキップした。
 さて、コウキ君が戻って来るまで、何をしていようかしら。そんなことを考えていると、ふと、背後に立ちはだかる山脈に気付き、それを見上げてみる。
 シンオウ地方を西と東に分かつ山――テンガン山。人々を圧倒させる重圧感と、人々を守るように見下ろす優しさ、両方が感じられる。あれを今から越えるのね。……越えるといっても、今回は地上の洞窟を進むだけだけど。それに、山の中は天然の迷路だと聞いたことがある。迷わないといいけれど……。

(マスター! マスター!)
「なぁに? シャワーズ」
(これ! 見て見て!)

 シャワーズは、どこからか釣り竿らしきものをくわえてきた。らしきもの、というのはその原形がほとんどないからだ。あと一度でも使えば、竿はポキリと折れてしまいそうだった。

「ボロの釣り竿ね。……本当の意味での」
(待ってる間、これで釣りしたら?)
「……そうね」

 こんなボロボロで何が釣れるかわからないけど、何もしないよりはマシかもしれない。ちょうど傍には、テンガン山から流れ出る川がある。釣りなんてどうやってすればいいのかわからないけど、とりあえず、余っている渋いポフィンを餌として糸を垂らしてみた。
 長くなりそうと思いながら、川岸に腰掛ける。シャワーズは私の横に腰掛けて、興味深そうに揺れる水面を覗き込んだ。

「昔、デンジ君がテッポウオを釣ったときは少し時間かかったけど、どうかしら」
(マスターは釣り、苦手そう)
「ふふっ。私もそう思うわ……っ!?」

 その瞬間、体が川に引きずり込まれるように、引っ張られた。慌てて、体に力を入れて立ち上がる。
 嘘、まだ数分も経ってないのに。しかも、こんな釣り竿で……。

「ちょっ! んっ! ……っ!」
(マスター! 頑張って!)
「シャワーズ……っ、見て、ないで、手伝っ……きゃあ!」

 水中にいる綱引きの相手が力を抜いたと同時に、私は思いきり尻餅をついてしまった。水面が盛り上がって、キラキラと輝く水と、何かが宙に跳ね上がる。水はそのままパラパラと散って、釣り上げられたものは私の目の前に落ちてきた。
 私が釣り上げたもの、それは……。

「っ……釣れ、た、わ」

 少しだけ痩せた、灰色の姿をしたポケモン。たぶん、今までに見たことないと思う。少なくとも、ナギサシティにはいなかったポケモンだ。
 ポケモン図鑑を開いて確認する。名前は……。

「……ヒンバス? あっ!」

 少しよそ見をした隙に、ヒンバスは必死に跳ねながら川へ帰ろうとしていた。えーっと……仲間にするには……。

(マスター! 指示出して)
「そ、そうだわ。バトルね。でんこうせっか!」
「シャワッ!」

 シャワーズは容赦なく、ヒンバスの背後から目にも留まらぬ早さで体当たりを繰り出した。ベシャン、という音を立ててヒンバスは顔面から地面に追突した。……なんだか、攻撃するのが可哀想に思えるのはなぜかしら。
 次の指示を躊躇っていると、ヒンバスはよろよろと起き上がった。かと思うと……ピチピチと、跳ねている。うん……跳ねている。

「……シャワーズ、かみつく」

 がぶり、とシャワーズが控えめに噛みつくと、ヒンバスはまた力なくその場にうつ伏せた。はねるなんて何も起こらない技、本当に使うポケモンがいたなんて。……捕まえるためとはいえ、一方的に攻撃してしまったことに良心が痛んだ。

(マスター、ボール)
「ええ……モンスターボール!」

 バッグの中から空のモンスターボールを取り出して、ヒンバスに向かって投げる。閃光と共にヒンバスが収まると、ボールはゆらゆらと揺れた。赤い点滅は、まだ中のポケモンが抵抗していることを示している証だ。
 そして、それが………消えた。

「……やったわ」

 動かなくなったそのモンスターボールを、両手で拾い上げる。胸のドキドキが止まらない。だって、私自身の手でポケモンを捕まえたのは……これが、初めてで。
 早く仲良くなりたい。はやる気持ちを抑えて、私はヒンバスを呼び出した。私の腕の中で、ヒンバスは大きな目を少し不安そうに揺らした。

「ヒンバス、これからよろし……あっ!」

 力を入れていた腕の中が空になり、腕が空ぶった。ヒンバスは私の腕をすり抜けて、ピョンピョン逃げていこうとしたのだ。
 どうして……待って……っ! 私は急いで追いかけて、川に帰る前にヒンバスを後ろから抱きしめた。

「待って! どうして逃げるの?」
(だって、貴方も僕のことを逃がすのでしょう?)
「どうして? せっかく仲間になってくれたのに、そんなことしないわ」
(! 僕の言葉……)
「そう、わかるの。だから教えて。どうしてそんなことを考えるの?」

 意志の疎通ができたことで安心したのか、それとも恐怖を感じたのか、ヒンバスは私の腕の中でおとなしくなった。腕に伝わる微かな振動……この子、震えている。それに、さっきからこの子、私と目を合わせようとしない。

(……僕はとっても醜いんです)
「え? そんなこと」
(いいんです、わかってます。それにすごく弱いんです。跳ねることしかできないんです)
「それは、これから」
(僕は人間に釣り上げられるたびに、醜いと蔑まれて、弱いと罵られて、逃がされました。それの繰り返しなんです)
「……ヒンバス」
(貴方もそうでしょう? 醜いより綺麗なポケモンがいいでしょう? 弱いより強いポケモンがいいでしょう? 僕なんていらないでしょう?)

 人間の好きに釣られて、仲間にされるかと思えば、罵られ、捨てられる。その繰り返し。
 人間に対する恐怖、不信感。この子は計り知れない傷を負っている。
 自分を蔑んで生きていくなんて……そんなの、悲しすぎる。

「……辛かったのね」

 今、自分が持ち合わせている全ての想いを込めて、私はヒンバスを抱きしめた。戸惑いからか、ヒンバスがビクリと体を揺らしたのがわかった。

「一緒に旅をしましょう」
(え……?)
「誰だって、輝くことはできるはずよ。人間もポケモンも同じ。輝きたいと願って努力すればきっと強くなれるわ」
(……でも、貴方)
「レイン」
(え?)
「私の名前よ」
(……レイン、さん)
「ええ。これからよろしくね、ヒンバス」

 にこっ、と笑ってみせる。腕の中から返事はなかった。でも、ヒンバスはもう私から逃げようとしなかったし、何よりも私の目を戸惑いながらも見上げていた。





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