056.恐怖心と向き合う切欠


 ナギサシティに住み始めて、数年経った頃だった。孤児院での生活にもずいぶん慣れて、性格も最初よりは明るくなって、『力』を受け入れられるようになって、ナギサの人たちとも仲良くなれた。
 それでも、私はナギサシティに苦手な場所があったのだ。今では大好きな、青い海だ。

『おー! 今日はキャモメとペリッパーの群がいっぱい来てるぜ!』
『みずタイプとひこうタイプを併せ持ったポケモンたちか。サンダースたちのいい修行相手になるな』
『おい、デンジ。せっかくみんな仲良く飛んでるのに、そんな殺伐としたことを考えんなよ。ほら』
『……なんだ? このパンくずの詰め合わせは』
『これ撒いてたらさー、いつの間にかこんなに集まってな!』
『おまえが餌付けしたからか!』
『……』

 『おー、タマンタまで集まってきたぜ! タマンタって何を食うんだろうな!』『おまえはタマンタたちまで餌付けする気か』『ポケモンに愛される太陽と海の街、ナギサシティ! いい響きじゃねーか』、とオーバ君とデンジ君はテトラポットの上で話している。そんな二人のやり取りを、私は少し離れた砂浜から眺めていた。
 キャモメ、ペリッパー、タマンタ……遠くから見る分にはいいんだけどな。
 私はイーブイを抱きしめて小さく膝を抱えた。ふと、トットッ、という軽やかな音が聞こえてきて顔を上げる。デンジ君とサンダースが、テトラポットを飛び降りて、こちらに来ているところだった。オーバ君とブースターは、まだ海辺のポケモンたちと戯れているみたい。

『オーバ君、楽しそうね』
『ああ、あいつは放っとくに限る。それより……レイン、まだ海は苦手なのか?』
『……うん。これ以上近付いたら怖い…かも。みずポケモンも、いるし』
『ブイ……』
『夜の海の中を溺れていたレインが、海と暗闇を怖がる気持ちはわからなくもない。でも、みずポケモンまで怖がっていたらもったいないぞ?』
『……うん。でも』

 あの子たちに水底まで連れて行かれたらどうしようって、ありもしない妄想ばかりが浮かんでくるの。
 ナギサの海で溺れていたあのとき、意識はなかったけど体が覚えている。水が肺まで入り込んで息ができない恐怖。果てしない闇に沈んでいく孤独感。骨まで凍てついて体の隅々まで軋んでいく感覚。
 ……やっぱり、だめ。

『……よし。行くぞ』
『えっ?』
『オーバ! オレたち222番道路に行ってくるからな!』
『おー!』
『え? えっ?』

 不意に腕を捕まれて引っ張り上げられ、そのままデンジ君に連れられて向かったのは222番道路の浜辺だった。浜辺の脇にある釣り好きで有名な人の家で釣り竿を借りて、デンジ君は釣り人さんたちに並んで釣り竿を海に垂らした。
 その隣、私は防波堤に腰掛けながらも、間近にある海が怖くてデンジ君の腕にしがみついた。そんな私を鬱陶しがらず、デンジ君は傍にいさせてくれた。

『あの……デンジ君』
『ん?』
『釣りなんて今までしたことなかったのに、どうしたの?』
『みずタイプのポケモンを育てるんだよ』
『えっ? でんきタイプにこだわるんじゃなかったの?』
『ああ。でも、みずポケモンでもオレの手持ちなら、レインも怖くないかもしれないだろ』

 それって……私のため……? 私がみずポケモンの苦手を克服できるように……?
 ……デンジ君。

『んー。なかなか釣れないな……』
『デンジ君』
『ん?』
『ありがとう』

 そうして、約一時間後にようやく一匹のポケモンを釣り上げて、私たちはナギサへと戻ったのだ。
 話の一部始終を聞いたオーバ君は、デンジ君の腰に増えたモンスターボールを見て、口角をひくつかせた。

『……で、みずポケモンをゲットしてきたと』
『ああ』
『なんでテッポウオなんだよ! 進化したらオクタンだぞ! みずタイプにも、フローゼルとかギャラドスとか格好いいのがいるじゃねーか!』
『何を言ってるんだ。オクタンのあの丸みを帯びたボディ。力強く放つオクタンほう。オクタンは可愛さと格好よさを兼ね揃えているんだぞ』
『おまえの感覚は常人とずれてんだよ!』

 口喧嘩を始めてしまった二人の横で、私はテッポウオが入ったデンジ君のモンスターボールを見て、とても優しい気持ちになれたの。

「――それから、苦手なみずポケモンを少しずつ克服していったの。海にも膝くらいまでなら浸かれるようになったし」
(マスター)
「そういえば、貴方は進化したとき『みずポケモンになってごめんなさい』って言っていたわね。……私のこと、昔から知ってるものね」
(……うん)
「もう平気だから心配しないで。シャワーズも、ランターンもジーランスも、みんな大好きよ」
「シャワッ」

 回復を終えたシャワーズがモンスターボールから飛び出してきて、その勢いに負けて抱き止められず、お尻をついてしまった。でも、愛情いっぱいに頬にキスをくれるこの子が愛しくて、私もシャワーズの冷たい体を強く抱きしめた。
 ふと、ナタネちゃんが隣にしゃがみ込んで、なぜか羨ましそうに目を細めた。

「オクタンをチョイスするあたり、なんかデンジらしいというか……はあ」
「どうしたの?」
「あのデンジがそんなに優しく接するなんて、レイン」
「え?」
「愛されてるね」

 その言葉に、私は首を傾げるばかりだった。「デンジ君は昔から優しいけど……?」「それはレイン限定だって」「でも、ポケモンたちにも優しいわ。あと、小さい子にも優しいのよ」「そういう優しさとはまた別で……」と、しばらく二人で話しをして、新しい挑戦者が部屋を訪れたとき、私はようやくポケモンセンターに戻ったのだ。
 ナタネちゃんに言われた言葉の意味は、結局、最後までよくわからなかった。





- ナノ -