013.夢の中に取り残された


 フライパンの上に落とされた卵が、食欲をそそる音を立てて広がっていく。それを菜箸でぐしゃりとかき混ぜて、モーモーミルクを少しと塩コショウも適量加えた。砂糖もほんのひとつまみ入れてやると、もう完成だ。

「きゃー! 寝坊ー!」

 悲鳴のあとに、ドタバタドタバタ、と慌ただしい足音が頭上から聞こえてきた。階段を駆け下りてきたヒカリちゃんは、器用なことに鏡も見ずに髪を結っている。
 私はスクランブルエッグとサラダ、そして焼き上がったトーストをテーブルに運びながら、笑いかける。

「おはよう、ヒカリちゃん」
「ブイブイ!」
「レインさん! イーブイ! おはようございます!」
「ジュン君がさっき来てね『先にナナカマド博士のところに行ってるぜー! 遅れたら罰金100万円!』……って、伝えてくれって」
「あー! ジュンに先越されちゃったぁ。いただきまーす!」

 私が出したスクランブルエッグを、大きな口を開けてパクリ。口を動かしながら、ヒカリちゃんはパチクリと目を見開いた。

「あれ? いつもと味が違う……」
「私が作ったのだけど、どう?」
「レインさんがですか? すごく美味しいです! ママのも美味しいけど同じくらい!」
「ふふ、よかったわ」

 私とアヤコさんが使った食器を洗いながら、ヒカリちゃんの足下をうろついているイーブイについて話をする。
 「レインさん、どうしてイーブイを外に出してるんですか?」「この子、旅に出る前から外で暮らしてたから、モンスターボールに入りたがらないのよ」「そうなんだ。あたしもポッチャマを連れて歩きたいなぁ」
 そんな会話をしばらくしたあとに「ごちそうさまでした!」とヒカリちゃんは立ち上がって、トレードマークの真っ赤なコートと白い帽子をかぶり、最後にマフラーを巻いた。

「じゃあ、あたしナナカマド博士にお礼を言ってきます! レインさんは?」
「私はもう少しフタバタウンにいるつもり」
「わかりました! 行ってきます!」

 「ママ、おはよう! ナナカマド博士のところに行ってくるね!」「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 外で洗濯中のアヤコさんに声をかけて、駆けていく姿が窓越しに見えた。ヒカリちゃんと入れ違いに、空になった洗濯籠を持ったアヤコさんが、家の中に入ってくる。

「ありがとう、レインちゃん。朝ご飯を作ってもらえて助かっちゃった」
「いいえ。一泊させていただきましたから、このくらい任せてください」
「今日はどうするの? もう次の町に行くの?」
「午前中、もう少しフタバタウンを回って、それからマサゴタウンに行くつもりです」
「そう。それなら、お昼ご飯も食べていってね」
「ありがとうございます。イーブイ、行きましょうか」

 ヒカリちゃんのお皿を片付けたあと、私はイーブイと一緒に、微かに雪が積もっているフタバタウンに繰り出した。
 ナギサシティとの海の香りとは反対の、緑の香りが私たちを迎えてくれる。都会から離れているからか、空気が澄んでいてすごく美味しい。
 小さな町だから、見て回るのにそう時間はかからないはずだ。 とりあえず、私は町の中を歩いて回ることにした。
 アヤコさんもそうだけど、フタバタウンに住んでいる人は本当に優しい人たちばかりだと思った。すれ違えば知らない私にも挨拶をしてくれるし、イーブイのことを可愛いと撫でてくれる人もいた。都会の人が忘れかけた温かさを、フタバタウンの人たちはみんな持っているのだ。

「……私の本当の故郷も、フタバタウンみたいに素敵な町だったらいいな」
「ブイ」
「それにしても、アヤコさんに初めて会った気がしないってこと以外は、特に気になることはないわね」

 そのとき、昨日の出来事が脳裏に蘇った。アヤコさんに感じたものと、似た感覚を、もう一人の人に感じた。

「そうだわ……シンジ湖で会った、あの人」

 アカギさんという、胸元にGの紋章があるスーツを着た、あの人。あの人の目を見たときの、心臓の異常な鼓動は、忘れられない。
 少しだけ怖いけど、もう一度あの場所に行ってみよう。私の足は、自然と町の外を向いていた。

「今日はいないみたいね……」
「ブィ」

 シンジ湖の畔は、人一人どころかポケモン一匹すら見当たらなかった。
 少しだけ、ホッとしてる自分がいる。このくらいで怖がっていたらこの先やっていけないと、自分でも思う。
 でも、あの目は、苦手。あの人にも初めて会った気がしなかった。アヤコさんに感じたものとは違って、少しだけ、怖い。

 ――ふわり。風が吹く。髪をさらい、草木を揺らし、水面に波紋を作った。

(ポケモンの感情、わかる、人間)
「え?」
(ポケモンの力、引き出せる、人間)

 意識の中に直接聞こえてきた、どこか幼い声。イーブイじゃない、だってこんな声を聞くのは初めてだもの。
 私は耳に手を当てて、息を止めた。静まり返った空間に、また、あの声が響く。

(他にも、秘められた『力』たくさん)
「それって、私のことなの……?」
(ポケモンに、愛された、人間)

 高い鳴き声が直接、耳に届いた。はっと開いた目に、一瞬だけ映った桃色。
 ふわり、ふわり。遊ぶように私の前で消えて、また現れて。
 あれは残像? それとも幻想?

「ブイブイーッ!」

 イーブイの鳴き声が、私を現実に呼び戻した。

(またね)

 それっきり、もうその声は聞こえなくなった。突然、足の力が抜けて、その場にへたり込む。
あれはポケモン? 『力』を使って、こんなに疲れたのは初めてだった。

「イーブイ、何か見えた?」
「ブイ?」

 イーブイは首を傾げている。あれを見たのは、私だけ?
 昨日とは違う意味で、心臓がドキドキいってる。なんだか、白昼夢を見たような気分だ。





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