009.始まりが芽吹いた音


 ナギサシティを出て、何時間経ったのだろう。太陽はもう高くまで昇って、ポカポカした陽射しが気持ちいい。
 途中、雨の中を飛んだときはさすがに参っちゃったけど、この陽気と風で服はすぐに乾いた。空を飛んでいる感覚にもだんだん慣れてきて、今では周りの景色を楽しめるようになってきている。
 釣りをしている人たち。リゾートホテルが立つ高台。ノモセシティの大湿原。ポケモン屋敷と呼ばれる豪邸。テンガン山やクロガネシティの炭坑。
 そして今、海の上を飛んでいるとき、トゲキッスが鳴いた。

(もうすぐ到着します)
「本当? 結構、遠かったわね」
(シンオウの端から端までですから)
「ふふ、そうね。あ、町の外に下ろしてくれる? 町の中だと、さすがに注目されちゃうもの」
(かしこまりました)

 景色が海から陸に変わって数分後、トゲキッスは徐々に下降を始めた。
 緑の匂いが、鼻をくすぐる。トゲキッスが降りたそこは、林の中に広がった静かな湖の畔だった。
 久しぶりに地面を踏んだ感触に違和感を覚えながら、私は辺りを見回した。

「ここは……?」
(シンジ湖の畔です。外へ出ればフタバタウンはすぐですので)
「ありがとう。あ、そうだわ」

 バッグの中のポフィンケースから、私はピンク色のポフィンを取り出した。トゲキッスの目の色が明らかに変わったことがおかしくて、思わずクスリと笑いながらそれを差し出した。

「はい、これ。ここまで運んでくれたお礼よ。シロナさんと同じで、貴方も甘いものが好きでしょう?」
「トゲトゲッ!」

  美味しそうに食べてくれてる。よかった。甘いポフィンはランターンの好物だからいつも持っていたけど、思わぬところで役に立ったみたい。
 ふわり。上昇して空に消えていくトゲキッスを、手を振って見送った。私が乗っていたときよりも、スピードが速いみたい。初めて空を飛んだ私のことを気遣って、スピードを緩めてくれていたのかもしれない。
 ありがとう。心の中でもう一度お礼を言ったとき、モンスターボールが一つ弾けた。

「きゃっ」
「ブイーッ!」
「ごめんなさい。出してあげる約束だったわね」
「ブイブイッ」
「ごめんね。行きましょう」

 少しご立腹のイーブイの隣を、父さんからもらったタウンマップを広げなから歩く。
 現在地はシンジ湖。シンオウ地方を代表する三つの湖の一つ。トゲキッスが言ったとおり、フタバタウンはここを出て201番道路を進んだらすぐみたい。
 それにしても、なんて静かなんだろう。ムックルの鳴き声も聞こえてこない。
 タウンマップを閉じて顔を上げたそのとき、私は思わず足を止めてしまった。湖のすぐ傍に、人が立っていたのだ。彼はただ、湖の中央にある小島の洞窟をジッと見つめている。

「……流れる時間……広がる空間。いずれ、このわたしアカギのものにしてやる。それまで、この湖の底深くで眠っているがいい。伝説のポケモンとやら」

 ブルーグレーの尖った髪と、ガラス玉のような瞳と、左胸に『G』の紋章が入ったスーツにも似た服を着た――おそらく、アカギという人。彼がシンジ湖の出口に向かおうとしたとき、ちょうど私と目が合った。
 ドクリ。心臓が大きな音を立てて、速く鳴り始めた。嫌な汗が背筋を伝う。足が小さく震えているのがわかる。
 初めて会ったはずなのに、どうして? それに、なぜか彼も、私から目を逸らさない。それだけでなく、彼は私に話しかけてきた。

「失礼。名を何という?」
「私、ですか? レインといいます」
「レイン……」
「あの……何か?」
「……いや。失礼、人違いだったようだ」

 アカギさんはそのまま、私の前から姿を消した。
 ドクリ、ドクリ。心臓はまだ落ち着かない。なんだろう、この感じ。前にも私、会ったことがある……?
 わからない。でも、できればもう会いたくないと思ってしまった。

「ブイ?」
「……大丈夫よ。行きましょう」

 しばらく立ちすくんでいた私の足に、イーブイが鼻を押しつけてきて、ようやく私は歩き出した。
 アカギさんが出て行ったシンジ湖の出口から201番道路に出る。
 今日はいろんな人に会う日だ。やっぱり、ナギサから出てみると、世界は広いと改めて思った。
 女の子と男の子が、ポケモンバトルをしている。戦わせているのは、ポッチャマとナエトルという、みずタイプとくさタイプのポケモン。タイプ的に有利なのはナエトルだけど、まだレベルが低いのか、ポケモンたちはそれぞれのタイプ技を使えていない。現に今は、ポッチャマが押している。
 端からバトルを傍観すること、数分後。勝負はポッチャマの勝利に終わった。

「やったー! 初バトルで勝ったー!」
「なんだってんだよーッ! おれ、負けちまったよー!?」

 嬉しそうにポッチャマを抱きしめる女の子と、傷付いたナエトルを撫でる男の子。初めてのバトル、って言ったわね。でも、どちらが勝ってもおかしくない、いいバトルだったと思う。
 思わず拍手をすると、二人とも同時に私のほうを振り向いた。

「すごいわね。貴方たち、ポケモントレーナー?」
「はい!」
「なりたてだけどなっ! てか、あんた誰?」
「ジュン! 敬語!」
「いてっ! なんだってんだよー!」

 女の子に頭を叩かれて、男の子は少しふてくされ気味だ。さっきバトルが終わったときも言ってた「なんだってんだよー!」って言葉、彼の口癖なのかもしれない。
 クスクス笑いながら、私はイーブイを抱き上げた。

「私はレイン。貴方たちと同じ、新人トレーナーよ。この子は私のパートナーのイーブイ」
「ブイッ」
「可愛いー! あっ! あたし、ヒカリっていいます。パートナーはポッチャマ!」
「おれはジュン! こいつはナエトル! おれのパートナーだ!」
「ヒカリちゃんにジュン君。よろしくね」

 赤いコートが印象的な元気な女の子――ヒカリちゃんと、黄色い髪が角みたいに尖ったせっかちそうな男の子――ジュン君。二人は額を合わせて何やら相談していたかと思うと、一斉に振り向いた。

「レインさん!」
「なぁに?」
「あんたもトレーナーなんだよな?」
「そうよ」
「あたしとバトルしてください!」
「おれとポケモンバトルだぁー!」

 突然のことで、ちょっと面食らっちゃった。でも『目が合ったらそれはバトルの合図』というくらい、トレーナーにとってポケモンバトルは日常茶飯事だ。私もここで一度、実戦を経験しておいたほうがいいかもしれない。
 でも、今のままだとちょっと無理よね。

「いいけど、二人のポケモンは疲れてるんじゃないかしら?」
「……あ」
「さっきまで戦っていたもんね」
「ポケモンたちの体力が回復したら、バトルしましょう。ねっ?」
「ブイッ!」
「じゃあ、レインさんもあたしの家に来てください。ポケモンを休ませてる間、お喋りしましょうよ!」
「いいの?」
「はい! あたしの家、フタバタウンにあるからすぐそこなんです」
「あっ! ヒカリ、ずりー! おれも行くからなッ!」

 ヒカリちゃんに手を引かれて走り出すと、後ろからジュン君も追いかけてきた。なんだか、旅の初日から賑やかなお友達ができちゃったかもしれない。
 こうして私は、二人と三匹のポケモンと一緒に、木々に囲まれた若葉が息吹く場所――フタバタウンに向かった。





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