月の光は永久に傍に


 ――コンコンコン。リズミカルに三回ノックすれば、扉が内側にゆっくりと開いた。
 部屋でくつろいでいたのだろうか。青いスーツは見えず、黒いタートルネックが私の目の高さに現れた。さらに視線を上げていくと、私よりも頭二つ分ほど高いところにその人物の顔があった。
 会うのは数日ぶりのはずなのに、この家の主は後生から別れた人物と再会したかのように、黒と紺の間の色をした瞳を大きく見開かせた。

「レインちゃん……?」

 ゲンさんは私を家の中に通して、温かい紅茶を入れてくれた。少しだけ共同生活をしていたときのことを、私の好みを覚えてくれていたのだろうか。出された紅茶にはミルクがたっぷり入っていた。

「私、またしばらく修行をしたいんです。だから、もしよかったらまた部屋を貸していただけないかと思って」
「ああ。お安いご用だよ」
「ありがとうございます」

 心地よい微笑と共に、私を再び迎え入れてくれたくれたことに安堵した。
 ナギサジムでのバトルで、デンジ君の切り札であるエレキブルと私のシャワーズの一騎打ちまで持ち込むことができたが、結局バトルは引き分けで終わってしまった。エレキブルのかみなりとシャワーズのふぶきが爆発して、互いに戦闘不能になってしまったのだ。
 だから私は、また鍛え直してジム戦に再チャレンジすることをデンジ君と約束した。デンジ君は私とのバトルのあと、まだまだジムリーダーも面白いと清々しい笑顔で笑い、ナギサに残ると言っていた。
 私が修行の地を鋼鉄島に選んだのには理由がある。それは、ゲンさんに会うためだ。いくつかの謝罪と一つの謎を確認するために、私はここに来た。
 緊張で渇いた喉を紅茶で潤し、私は息を吸った。

「あの、ゲンさん」
「なんだい?」
「私、悪夢を忘れたって、嘘を付きました。……ごめんなさい」

 ゲンさんと生活を共にしていた新月の夜。ゲンさんと話したことも悪夢も何も覚えていないと言ったけれど、本当は夢に見ていた。ゲンさんとリオルと私とチョンチーで過ごした日々は、ある日突然ガラス玉のように粉々と砕けた。燃えさかる村。動かない人やポケモンたち。私だけドンカラスに浚われたこと。嵐の海に身を投げ捨てたこと。
 本当は全部思い出していた。でも、信じたくなくて、受け入れられなくて、怖くて、忘れた振りをしていた。

「でも、もう全部受け入れました。今度、島に行ってみようと思います」
「そうか……わたしも久しぶりに行こうかな。一緒に花を供えに行こう」
「はい……」

 今はもう何もない島に、花を植えよう。生きていた人とポケモンの数だけ花を植えて、天国みたいに綺麗な島を作ろう。きっとみんなも喜んでくれる。それが今の私たちにできる、いなくなった波導使いへの弔いだと思う。
 ゆるりと視線を上げた。ゲンさんは細長い指先で角砂糖を一つ摘み、紅茶に落としてスプーンを使いくるくるとかき混ぜ、優雅な手つきでカップを持ち上げ口に運んだ。
 私とゲンさん。二人きりになってしまった波導使い。私にとってゲンさんは家族のような存在であり、掛け替えのない仲間でもある。それ以上でもそれ以下でもない。今はこの関係を大切にしたい。

 私もゲンさんもカップの中身は既に飲み干していた。話の中にも沈黙が含まれるようになってきた。
 お互い、相手に何か言いたいことがあるらしい。でも、言ってしまえばあの新月の夜のように何かが壊れる気がして、なかなか言葉にできずにいる。
 ゲンさんが何を考えているのかなんてわからない。わかるはずも、ない。
 それでも、私は問う。最後に一つ、あの夢の中の欠けていたピースを埋めるために、私はここにいるのだ。

「あの、一つだけ聞きたいことがあるんです」
「なんだい?」
「島で育った記憶は思い出したんです。でも、幼い私がゲンさんを呼ぶときと、ゲンさんが私を呼ぶときだけ、何も音が聞こえなくなるんです」
「つまり、わたしとレインちゃんの本当の名前だけ思い出せない、と?」
「はい。私には今、デンジ君からもらった名前があるし、ゲンさんにも新しい名前がある。でも、本当の両親がつけてくれた本当の名前も知りたいんです。教えていただけませんか」

 名前は私たちの存在の証だ。それと同時に、親から与えられる一番最初の愛情だと思う。
 今の私にはデンジ君が名付けてくれたレインという名前がある。雨を怖がっていた私が、この名前を呼ばれることで雨が怖くなくなるようにとつけてくれた、大切な名前だ。みんなが私をレインと呼んでくれる度に温かい気持ちになれる。私という存在を肯定してもらえているようで嬉しくなる。
 だから、私は知りたい。本当の両親が私にどんな名前を付けてくれたのか、どんな想いを注いでくれていたのか、知りたい。
 じっとゲンさんを見つめる。彼は目を閉じて考える素振りを見せたあと、ゆっくりと首を横に振った。

「どうして……」
「もし、これを口にしてしまったら、きみは別のことまで思い出してしまうかもしれない」
「別のこと?」
「きみが帰る場所はここではない。きみの心にいるのはデンジだろう?」
「……すみません。あの、意味が、よくわかりません」

 本当だった。どうして今、このタイミングでデンジ君の名前が出てくるのだろう。
 ゲンさんが、あの目をしている。全てを一人で背負い込み、誰にも傷を見せないようにそれを仮面で覆い隠した、道化の瞳だ。悪夢から明けた朝、私が全てを思い出しているとは知らずに、私たちの過去に蓋をして沈黙を守ったときのように。
 ゲンさんはまた私を傷付けまいと、何かを隠そうとしている。

「もしその名をわたしが口にして、きみの心が完全にわたしに傾いても意味はない。または、今の気持ちはデンジに残ったまま昔の記憶だけが戻り、今と昔の想いの差に苦しむことになるかもしれないしね」

 ゲンさんは席を立つと私に背を向けるように窓辺に立った。真昼の光が射し込み、彼の黒髪に光の輪を落としている。
 神様みたいだ。思わず、そんなことを思ってしまった。

「名前にはそれだけ強い力がある。きみが自然にそれを思い出したとき、わたしのところに来たいのならそれでいい。そうでなくても、わたしはきみの幸せを願っているよ」

 ちかり。一瞬だけ目が眩んだ。逆光でゲンさんが影に包まれたように見えた。そのとき、私の体は不思議な感覚に囚われて、実際にはない映像を虹彩に映し出した。
 知らない男の人がそこにいる。特徴的な帽子を被り、マントを緩やかに靡かせ、不思議な形状をした杖を持った男の人が、私に背を向けて立っている。ゲンさんの後ろ姿と、波導伝説の本に載っていた波導の勇者の後ろ姿が、重なったのだ。

 ――記憶の奥底に封印されていたパンドラの箱が、ゆっくりと開けられた。

 世界を救った英雄、波導の勇者とルカリオ。そして、ゲンさんが語ったもう一つの波導伝説。波導の勇者を支えた彼の妻とリオル。
 絡まっていた糸が解かれて、何かが繋がった。

「アー、ロ、ン、さま」

 全ての記憶が流水のように海馬に押し寄せてきて、今蘇る。過去の記憶も、前世の記憶も含めて、全部、全部。
 幼い頃、私は彼をアーロンお兄ちゃんと呼んでいた。そのさらに昔も、私は彼をアーロン様と呼び、師として敬い、そして妻として愛していた。最期の時まで一緒にいて、来世でもう一度結ばれようと願いながら、共に永久の眠りに就いたのだ。
 ゲンさんが驚いてこちらを振り向いたとき、私は彼に抱きついていた。
 どうして私はこんなに大切なことを忘れていたのだろう。ゲンさんは今まで、どういう気持ちで私を見ていたのだろう。考えるだけで切なくて、胸がいっぱいになる。

「今まで、ずっと、貴方だけが覚えていた。貴方はずっと私を想ってくれていたのに、私は何もかも忘れてしまっていて……ごめんなさい」
「レイン、ちゃん?」
「もう忘れたりしない。ずっと貴方と生きていきます。……アーロン様」

 旅に出るまで、私にはこの十年間が全てだと思っていた。デンジ君の隣から見る世界が私の全てだと信じて疑わなかった。
 しかし、それは違ったのだ。前世からの繋がりは、何百年という時を経て現代へと蘇り、私たちを巡り合わせた。前世、過去、今。途方もない時間の中で、ゲンさんはずっと私だけを想ってくれていたのだ。少し遠回りしたけれど、ようやく私も思い出せた。
 ゲンさんを、そして彼が生まれ変わる前の波導の勇者を――アーロン様を私がどれだけ愛していたかという事実を。

 ゲンさんは私をかき抱いて「────」と、耳元で私の本名を口にした。包み込んだ腕は震えていて、この人には私がついていないとダメなんだと思った。それはきっと私も同じだ。
 ああ、アーロン様。やっと巡り会えた。これでもう、彼以外を愛すことなどできない。できるはずが、ない。
 今思い返せば、クロガネゲートで再会したときから、その予兆はあった。絡めた腕は熱を帯び、目を合わせると気恥ずかしさを感じ、別れればまた会いたいと願ってしまった。
 ゲンさんに対して、私はいつも恋慕を抱いていた。それがゲンさんと『彼』の差だった。自覚してしまえばもう、私はゲンさんの傍を離れられない。

 震える両腕の中で月明かりのような儚い温もりを感じながら、私は十年間隣にいてくれた『彼』の元を離れて、過去と前世を共に生きた愛しい人とこれからも生き続けることを、そっと誓った。



(必然の邂逅は私たちを導き、千年に一度の愛を結んだ)



──shine GEN's happy ending...?──


- ナノ -