169.最後の試練に挑む覚悟


――ナギサシティ――

 立体歩道橋の上に立ち、めいっぱい空気を吸い込んだ。昨日、こっちの世界に帰ってきたときはドタバタして感じられなかった、風を体全部で感じる。潮の香りがとても落ち着く。帰ってきたんだなぁって実感できる。
 そう。私はナギサシティに帰ってきた。過去を知る旅を終えて、帰ってきたのだ。私の生まれ故郷はなくなってしまったけど、デンジ君やオーバ君、新しい父さんや母さんたちがいてくれるここが――私の帰る場所だ。

「おーい! レイン!」

 背中に投げかけられた声だけで、それがオーバ君のものだとわかる。風に吹かれる髪を押さえながら振り向くと、オーバ君が眩しい笑顔で手を振ってくれていた。久しぶりに顔を合わせた彼は、私が旅立つ前と何も変わっていない。
 オーバ君はいつもこうして、みんなが安心できるように笑ってくれる。曇りのない心からの笑顔で、感情を隠さずに表してくれる。だから今も、こうして私の前で笑ってくれて、ああ帰りを待っていてくれたんだなぁって、とても嬉しくなる。

「体は大丈夫なのか?」
「ええ。何ともないわ」
「そうか! やー、よかったよかった! ほんと、レインが操られていたときは冷や冷やしたぜ。エレキブルの渾身のパンチを受け止めて、恐ろしいのなんのって」
「ご、ごめんなさい……」

 アカギさんのドンカラスから操られていたときのことは、ぼんやりとしか覚えていないけど、だんだん記憶がはっきりしてきて、もう今ではしっかりと思い出せる。私を助けようとしてくれたデンジ君とオーバ君の邪魔をして……思い出すだけで恥ずかしい。
 でも、オーバ君はそんなことなんか気にしてないというように、豪快に笑い飛ばしてくれる。オーバ君はそういう人。自然と、他人を気遣うことができる人なのだ。

「でも、本当によかったよ。レインは大丈夫だな」
「レインは、って?」
「いやー、帰ってきてからデンジの様子がおかしいんだよ」
「デンジ君が?」
「ああ。なんか以前にも増してぼけーっとしてるし、常に何か考え込んでいるみたいだし」

 実は、帰ってきてからというもの、デンジ君とはまだまともに会話できていない。だから、オーバ君の言っていることを全て理解できないけれど、でも、ランターンのモンスターボールを返してくれたあのとき、私も彼の様子がおかしいと確かに感じていた。
 私があんな記憶を見せたから……じゃない、とは思う。自分から見せていなくても、いずれ彼は私に話して欲しいと言ったはずだ。彼はいつも私を知ろうとしてくれたし、力になろうとしてくれた、から。

「やっぱり、強い挑戦者がいないっていうのも原因の一つだと思うんだよ。昨日こっちの世界に帰ってきてすぐ、ヒカリとジュンが挑んできたみたいだが、いい線までいって結局負かしたらしいし」
「ええ……」
「と言うわけで! レイン! 熱いポケモン勝負であいつのハートをガンガンに燃やしてくれよ!」
「え? わ、私!?」
「あいつなら灯台にいるからさ! 頼んだぜ!」

 途方に暮れる私を残して、オーバ君は「腹減ったなー。しょうぶどころにでも行くか」とフワライドを出して北に飛んでいった。

 私が、デンジ君と、戦う? 彼を満足させられるような、そんなバトルを、する?
 無理だ。オーバ君が聞いたら弱気だと叱咤されるかもしれないけれど、でも、デンジ君に勝つ私なんて想像がつかない。そもそも、私の仲間たちはみずタイプの子ばかりだ。でんきタイプのプロフェッショナルであるデンジ君とのバトルの相性は最悪だと思う。
 ポケモンジムにはチャレンジャーのジムバッジの数に合わせた段階にレベルが設定されて、そのレベル以上の戦いをデンジ君はできないとわかっているけれど、それでも勝算が見えてこない。
 デンジ君はヒカリちゃんやジュン君まで破ったのだ。きっと、私も同じように倒される。シャワーズたちの力を信用していないとか、そういう問題じゃなくて……本当に昔からデンジ君の強さを知っている私としては、ただ本当に、勝つイメージが沸かないのだ。

「どうしましょう……」
『レインさま、頑張って下さい。リオル、応援します』
「……シャワーズは? デンジ君と戦ってみたい?」
(うん! うまく戦えるかわからないけど、でも、シャワーズ強くなったんだよって、サンダースに見せたい)
「……」

 トレーナーケースを取り出し、最後の一つだけ空白になっているジムバッジを納めるスペースを見れば、ジムリーダーであるデンジ君の顔写真と目が合った。まだジムリーダーになりたての頃に撮られた写真だ。青い瞳は冬の海のように凛とした光を持ち、挑んでくる挑戦者を迎え撃とうという心意気で輝いていた。
 今は、こんなデンジ君の目を、滅多に見ない。何かに諦めたような空虚な光に覆われた青には、痺れるような雷も燃えさかる炎も映らない。
 私に、彼をもう一度こんな目にさせるだけの実力があるのだろうか。ナギサシティを見下ろす灯台を見上げて、私はしばらく立ち尽くした。





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