006.太陽に背を向ける


 まだ外は薄暗い。ナギサシティは一日の一番始めに太陽に照らされる街だけど、未だ朝焼けは見えない。そんな早朝に、私は旅立ちの最終準備をしていた。
 いつも着ているワンピースの上から薄手のケープを羽織る。足下はサンダルからショートブーツに履き替えた。
 シンオウ地方は基本的に気温が低く、最北端では雪に埋もれる街もある。防寒はしっかりしておかないと。

 ――デンジ君に送ってもらったあの夜から、一週間が経過した。
 あれから、デンジ君には逢っていない。電話がかかってきたときもあったけど、忙しくて電話に出られないことだけメッセージで伝えて、電話に出るのは我慢した。
 幸い、最近は挑戦者が多いらしく、デンジ君はジムに缶詰らしい……と、オーバ君から聞いた。顔を合わせづらかったから、正直ホッとした。
 斜めかけのバッグを肩からかけて、生活感のなくなった部屋を見回す。バッグに入っているモンスターボールが、カタカタと揺れた。その中には、不満そうな顔をしたイーブイが入っている。

「イーブイ?」
(マスター。ここ、狭い。お外、出たい)
「ちょっとだけ我慢してね。あとで出してあげるから」

 イーブイを宥めて、私は長年住み慣れた部屋に背を向けた。
 扉の向こうでは、父さんと母さんと、ガーディが待っていてくれた。いつものように、穏やかな口調で父さんが微笑む。

「身支度は済みましたか?」
「はい」
「こんなに朝早くじゃなくてもよかったんじゃないかい?」
「でも、子供たちが起きる前に出たかったから」

 顔を合わせたら、また別れが辛くなってしまうから。
 旅に出る決意を一週間前に告げたとき、前向きで大らかな性格の母さんはすんなりと賛成してくれた。反対に、心配性の父さんはずっと渋っていたものの、私の決意が本物だと伝わると、最後には首を縦に振ってくれた。
 孤児院の子供たちにも、黙っておくわけにはいかなかった。私を慕ってくれている子の中には、泣き出してしまった子もいたけれど、昨晩はみんなで送別会を開いてくれた。
 こんなに、周りに心配してくれる人がいて、私は幸せ者だと心の底から思った。
 父さんと母さんはそれぞれ、手にいくつかの道具を持っていた。モンスターボールが五個と、キズぐすりが三個。それから、折り畳まれた一枚の紙。

「モンスターボールを餞別に渡しておくからね。イーブイちゃんだけでは大変だろうから、自分でもポケモンを捕まえてみるといいよ」
「ありがとう、母さん」
「キズぐすりも、いくつか持って行ってくださいね。あとはタウンマップがあると便利でしょう」
「ありがとう、父さん」
(頑張ってね)
「ガーディも、ありがとう」

 しゃがんで頭を撫でてやると、ガーディは「くぅ〜ん」と甘えた声を出した。
 名残惜しいけども、そろそろ日が昇ってしまう。シロナさんと約束した時間までもうすぐだ。
 私はガーディの柔らかい毛並みから手を離し、立ち上がった。

「何かあったらいつでも連絡するんだよ」
「たまには帰ってきてもいいんですからね」
「はい。じゃあ……行ってきます」

 父さんと母さんに見送られて、私は孤児院の門をくぐった。
 潮風が髪をさらう。薄暗い、未だ眠っている街はとても静かで、波の音しか聞こえない。しばらく見られない風景を、私はしっかりと目に焼き付けた。
 北の浜辺までやってくると、ブーツの底が白い砂を踏んでザラリとした音を立てた。ここが約束の場所だ。

「ふぅ……いよいよね」
(レイン)

 暗い海に、一点の光が見えた。それはだんだん、私に向かって泳いできている。
 私が波打ち際ぎりぎりまで近付くと、ランターンも砂浜を跳ねながら私ところまで来てくれた。

「おはよう。ランターン」
(今日、発つの?)
「ええ……貴方ともしばらく会えなくなっちゃうわね。今までいろいろとありがとう」

 そう言って、笑って、ランターンのライトに触れた。そこは、ほんのりと暖かかった。
 ランターンは、赤く大きな瞳で私をじっと見上げる。

(わたしも、連れて行って)
「え?」
(レインの傍にもっといたい。レインのことを守りたい。だから、イーブイと一緒にわたしも連れて行って)
「ランターン、本当に……いいの?」

 思いがけない提案だった。でも、それを断る理由はあるわけがなかった。
 私が確認すると、ランターンは笑って、頭のライトを点滅させた。
 ああ、私は本当に、幸せ者だわ。

「……ありがとう」

 母さんから渡されたモンスターボール、早くも出番がきたみたい。
 空のモンスターボールを一つバッグから取り出すと、それをランターンにくっつける。赤い閃光と共に、ランターンはモンスターボールの中に収まった。それを宝物のように抱きしめたとき、頭上を風が掠めた。
 白い飛行体――シロナさんのトゲキッスは、一度下降して私の頭上を掠めたあと、再度上昇して空中で旋回した。
 飛行ポケモンの背に乗せてもらって、一気にナギサから旅立つ。それが私の計画だった。だから私は、前々からシロナさんと打ち合わせをしていたのだ。
 私はランターンが入ったモンスターボールをバッグに仕舞って、ゆっくりと地上に降りてくるトゲキッスの元に駆け寄った。

「トゲキッス」
(お待たせしました)
「ううん。こちらこそ、お世話になります」
(お気を付けて、わたくしの背へ)
「ありがとう」

 人が一人乗れるくらいの背中に、控えめに乗った。前に本で読んだことがあるけど、トゲキッスの標準の重さは三十数キロだった気がする。私なんかより断然軽い。
 でも、そこはさすがポケモンだ。トゲキッスは可愛い外見に似合わない力で、私を乗せてゆっくりと上昇していく。

(行き先はどちらまで?)

 トゲキッスが私に問いかけた。
 正直、初めての空を飛ぶ体験に、トゲキッスにしがみついているので精一杯だったけれど、軽い恐怖を伴う浮遊感の中、行き先だけははっきりと告げることができた。

「若葉が息吹く町。フタバタウンへ」

 ナギサシティとは正反対の、シンオウ地方の西側にある小さな町、フタバタウン。そこは何かの始まりを感じさせる場所だと、タウンマップで読んだことがあった。私も旅を始めるならそこからがいい、と前から目を付けていたのだ。実際、フタバタウンはシンオウ地方の隅に位置していて、各地を回るスタート地点にはちょうどいい。
 トゲキッスは、フタバタウン方面に旋回した。
 薄暗い朝に光が射し、目を刺激する。ナギサの海の水平線に、太陽が見える。その瞬間、朝焼けが街全体を照らした。私は恐怖心を振り払い、トゲキッスの背から身を乗り出した。
 たくさんの想い出がある浜辺。ナギサシティ名物のポケモン岩、海を明るく照らすシルベの灯台、一番長い時を過ごした孤児院。
 一つ一つに目をとめて、私は最後にナギサジムを見下ろした。もちろん、まだジムの明かりはついていない。

「デンジ君……」

 きっとまだ夢の世界にいる、大切な幼馴染の名前を呟いた。
 どんどん、彼の住む街が遠ざかっていく。そのまま見えなくなるまで、私は振り返ったままだった。
 私が街を出たのに、なぜか私が街に置き去りにされたような錯覚に囚われてしまった。





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